荊州攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:37 UTC 版)
建安24年(219年)、荊州方面で劉備の将軍である関羽と対峙していた呂蒙が病気になり、建業に戻ることになったとき、その帰路の途中で呂蒙と対談を申し入れ、関羽を打倒し荊州を手に入れる謀を練ることを勧めた。呂蒙は建業で孫権と会ったとき、代理の武将について相談されたため、陸遜は才能が優れており、かつ関羽に名が知られていない事から、適任であると述べた。孫権はかくして陸遜を召し、偏将軍・右部督に拝して呂蒙に代えた。 陸遜は謙った態度の手紙を送って関羽の軍功を称えた。そのため関羽は油断し、呉に対する備えを完全に怠るようになった。陸遜はこのような状況である事を孫権に報告し、関羽を捕えるための作戦の要旨を述べた。孫権はこの知らせを受けて、関羽討伐を決断し、呂蒙と陸遜をその先鋒として長江を下らせた。陸遜は呂蒙と共に公安と南郡を攻撃し、たちまちのうちに降伏させた。陸遜は宜都に入り宜都太守の職務を遂行し、撫辺将軍、華亭侯に封じられた。219年11月には、劉備の任命した宜都太守の樊友は逃亡し、郡にある城の長官や居住する異民族達は陸遜に帰順した。陸遜は呉の朝廷より金銭や宝物を与えられると、それらを帰順してきた者に振舞った。部下の李異や謝旌に命じて、近隣の劉備軍の残党や支援者を追討させ、討ち取ったり捕虜にしたり帰順させた者の合計は数万人にも達したという。 この功績により陸遜は右護軍・鎮西将軍・婁侯となった。さらに揚州牧の呂範に命じ、陸遜を州に招いて別駕従事とし、茂才に推挙したという。陸遜は全琮ら揚州の名族の子弟とともに呂範の風下に置かれるような立場であったという。 陸遜は、新たに呉に服属した荊州の者達の多くが能力に応じた活躍の場が得られない状況を見て、その不満を取り除いてやるよう孫権に上奏した。孫権はそれに従った。
※この「荊州攻略」の解説は、「陸遜」の解説の一部です。
「荊州攻略」を含む「陸遜」の記事については、「陸遜」の概要を参照ください。
- 荊州攻略のページへのリンク