三国争覇とは? わかりやすく解説

三国争覇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 13:46 UTC 版)

劉備」の記事における「三国争覇」の解説

蜀を奪って安定した地盤得た劉備であったが、孫権勢力からの警戒を買うこととなった。もともと赤壁勝利孫呉の力によるものであると考えていた孫権は、荊州はその戦果として当然帰属するべきものと考えていた。劉備荊州統治認めていたのは、曹操への防備当たらせるためであり、劉備勢力伸長しすぎることは好ましいことではないと考えていたのである建安20年215年)、劉備が蜀を手に入れたことで、孫権荊州の諸郡(長沙桂陽零陵)を引き渡すようにと言ってきたが、劉備は「涼州手に入れた荊州の地を返します」と答えた。これに怒った孫権呂蒙派遣して荊州を襲わせ、両者戦闘状態に入った。 しかしその頃張魯曹操降伏して益州雍州を繋ぐ要害の地である漢中地方曹操の手入った。この事に危機感抱いた劉備荊州呂蒙奪われ長沙郡桂陽郡領有認めることで孫権和解し奪われ零陵郡返還南郡領有認めさせ、漢中攻略目標とすることになった劉備曹操から漢中奪おう出兵企て周羣に占わせた。周羣は「土地手に入れて住民手に入らないでしょうまた、一部隊しか出さないであれば必ず負けます」と答えた劉備進言聞かず呉蘭雷銅出撃させたが二人とも敗死した。その後漢中攻略には成功したが、住民多く曹操によって移住させられた後だった。 建安24年219年)、自ら陣頭指揮執り漢中夏侯淵張郃攻め法正黄権の策に従いこれらを撃破し夏侯淵趙顒らを斬り殺した定軍山の戦い)。その後曹操自身漢中奪還すべく軍を率いて攻めてきたが、劉備防御徹して曹操軍多く損害与え曹操軍撤退させた。 漢中手に入れた劉備曹操建安21年216年)に魏王になっていたことを受けて漢中王自称した前漢高祖劉邦が漢王であった故事倣ったものであったまた、同時に大司馬称した。なお、群臣劉備漢中王推挙した際の文章は、李朝書いたのである一方、東では荊州奪還するべく孫権呂蒙たちとともに策を練り関羽曹仁の守る樊城攻めている間に、曹操同盟を結び、荊州本拠襲って孤立した関羽らを捕らえ、これを処刑した。これにより荊州は完全に孫権勢力のものとなった劉備養子劉封関羽救援に赴かず、対立していた孟達軍楽隊没収し孟達曹操寝返り曹操軍上庸奪われた。劉備諸葛亮提案従い劉封軍規により処刑させた。

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三国争覇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 07:19 UTC 版)

三国時代 (中国)」の記事における「三国争覇」の解説

216年曹操は自ら軍を率いて孫権征討に赴き、翌217年孫権曹操降伏した濡須口の戦い第二次戦役)。 219年劉備は自ら漢中出兵して、これに従軍した黄忠趙雲奮闘もあり、守将の夏侯淵討ち漢中奪った定軍山の戦い)。この地を獲った劉備漢中王名乗る。この称号はかつて劉邦漢中南鄭)の地で漢王を名乗ったことに倣ったものと思われる荊州劉備領を守備していたのは関羽で、その頃関羽荊州北部曹操に対して猛烈な攻撃をかけ、曹操部将于禁率いる七軍を壊滅させ、樊城襄陽包囲した樊城の戦い)。一時曹操すらうろたえて遷都考えたほどであった。そこで曹操は、孫権長江南部領有認め条件孫権同盟を結び、孫権劉備攻撃するよう求めたかねてより荊州問題関羽不信感抱いており、また呂蒙進言もあったため、孫権荊州攻略呂蒙命じた関羽は、呂蒙陸遜の策にはまり、孫権捕らえられ処刑され南郡武陵零陵孫権領有するところとなった。この戦いの結果劉備たちと対立することが確定的となったために孫権曹操に対して形式的ではあるが、臣従した(孫権部下提言もあり、一時劉備との対立をそらすため関羽の首を曹操元へ送ることで打倒曹操掲げ計画立てたが、逆に劉備怒り増大させることになり対立深まった)。 220年曹操死に、後を継いだ曹丕はついに献帝より禅譲受けて皇帝文帝)となり、魏を建国した。これを聞いた劉備対抗して221年皇帝即位、漢の後継者称した(蜀(蜀漢)の創設)。 皇帝となった劉備だったが、長年部下であり義兄弟である関羽魏攻略足がかりとなる荊州失った怒り激しく孫権対す復讐戦を企図し、反対する者を遠ざけて出兵踏み切った蜀漢軍は最初のうちは連戦連勝であったが、呉の陸遜の策にはまり大敗夷陵の戦い)、劉備退却し白帝城崩御した。その後劉禅継ぎ諸葛亮丞相として蜀漢内外政を一手に引き受けることになる。 蜀漢大勝した呉は、長江南部地域確固とした基盤築いたことから、魏に対して従属的な姿勢をとる必然性なくなり元号黄武定め独立色を明確にした。さらに劉備亡き後の蜀と同盟し、再び魏に対抗するようになった。 魏の文帝内政面に意を砕き新しく九品官人法施行した。この法は南北朝時代末期まで適用されることとなる。また、222年に魏は3方向から呉を攻め、呉を苦しめたが、疫病流行したため退却したその後文帝は、連年にわたり呉へ出兵繰り返すも、徐盛らの奮戦により全て撃退された。226年40歳崩御曹叡明帝)が後を継いだ蜀漢諸葛亮は魏に対す北伐作戦最終目標とし、そのための足場固めのために225年には南征行い蜀漢反逆した雍闓高定反乱鎮圧した2年後227年諸葛亮出師の表奉り北伐決行した。この戦い7年間・5度に及び、諸葛亮は魏の曹真張郃司馬懿郭淮らと戦い武都陰平の2郡を獲得し張郃討ち取った234年最後北伐最中五丈原陣中諸葛亮は病に倒れ没したその後蜀漢は一旦は消極的な政策をとり、大規模な軍事侵攻作戦実行しなかったが、姜維が軍を握ると北伐繰り返し国力消耗した228年、呉の周魴偽りの降伏を魏に申し出て、魏の曹休を石亭に誘い出した。呉の陸遜朱桓全琮率いて曹休戦い大勝した石亭の戦い)。 呉では229年孫権皇帝名乗り一時代1人だけの名目だった皇帝同時に3人並ぶことになった。この時、呉と蜀漢は魏を打倒した暁の魏領分配を決めている。 230年に呉は海を渡って夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)に兵を出したという記録があり(夷州には辿り着いたが、亶州には辿り着けなかった)、これは台湾(夷州)と沖縄諸島(亶州)ではないか考えられているが、日本ではないかとも考えられている。 この頃、呉の呂岱交州出兵して、この地の独立勢力の士氏一族滅ぼして、この地を呉の直轄とし、南海交易利益占めた234年から3年間、呉の諸葛恪陳表顧承らは揚州の非漢民族である山越討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍組み込み兵士を6万人徴兵した。 235年、魏の幽州刺史王雄命令受けた韓龍は、鮮卑族軻比能暗殺した

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