第二次戦役
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 09:59 UTC 版)
1791年秋、ネパールはチベットが2年目から協定を守らなかったことを理由として、チベットに侵攻し、再び戦争が勃発した。 ネパールの兵1万5000がチベットに侵入し、チベット軍がラサへの道に配置されるまで、ダライ・ラマ8世は北方に避難するように勧めることが考えられた。また、ネパールに侵攻されたチベットは、ケルン協定が清の皇帝の公式許可を受けていなかったことを見て協定の無効を唱え、清に援軍を要請した。 ネパール軍はタシルンポ寺院の財宝を大量に略奪したが、それはタシルンポの富をちらつかせたシャマルパ・ラマの手先に案内されたものであった。タシルンポ寺院が掠奪される前、寺院の会計係は容易に運べるものは運び出していた。カトマンズに送られた財宝は夥しく、その後数年は軍の兵士への給料は金で支払われたという。 1792年、清の乾隆帝は福康安指揮下の軍勢7,000、海蘭察指揮下の軍勢8,000から成る四川軍1万5千をラサに派遣し、ネパールの領土に攻め入った。そのため、ネパールの摂政バハドゥル・シャハは極西にいた将軍アマル・シンハ・タパを戦闘中のガルワール王国と講和するように命じ、呼び戻させた。 また、ネパールはイギリス東インド会社のベンガル総督チャールズ・コーンウォリスにも援軍を求めた。イギリスはネパールに清国の影響が及ぶのを恐れ、代表団の派遣を決定した。 清国の大軍はネパール軍を圧倒していき、ヌワコートにまで兵を進めた。清軍とネパール軍は首都カトマンズから2、3日の距離にあるダイブンで衝突し、双方に大損害が出た。 戦況は清朝有利に進んだものの、多大な損失を出したことと兵の疲弊、敵地における冬季の孤立、加えてイギリスの介入を清朝は恐れた。他方、ネパールも清軍が首都を脅かす状態を恐れていた。
※この「第二次戦役」の解説は、「清・ネパール戦争」の解説の一部です。
「第二次戦役」を含む「清・ネパール戦争」の記事については、「清・ネパール戦争」の概要を参照ください。
第二次戦役(214年 - 215年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 09:24 UTC 版)
「濡須口の戦い」の記事における「第二次戦役(214年 - 215年)」の解説
214年、孫権は電撃的に皖城を落した。7月、曹操は参軍傅幹の諫言を受け入れず、荀攸を軍師に任命し、孫権の侵攻に報復として、再び自ら10余万の軍勢の指揮を執り、長江濡須を侵攻した。しかし、荀攸・邴原などが出征の途上で病死し、華歆を後任の軍師とした。 曹操は1月余り対峙したあと、孫権は甘寧に3000人を預けて前部督とし、夜陰に乗じての奇襲を指示。甘寧は100人の決死隊を選び夜襲を決行し、これにより曹操軍は混乱を来した。その後も攻防が続いたが曹操軍は濡須塢を攻め落れず撤退した。
※この「第二次戦役(214年 - 215年)」の解説は、「濡須口の戦い」の解説の一部です。
「第二次戦役(214年 - 215年)」を含む「濡須口の戦い」の記事については、「濡須口の戦い」の概要を参照ください。
第二次戦役(215年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:32 UTC 版)
「合肥の戦い」の記事における「第二次戦役(215年)」の解説
214年に廬江郡都の皖城の奪取が成り、同年に劉備との荊州統治の係争も一応の解決を見、孫権は再び北方に軍を向ける余裕ができた。孫権は自ら10万の軍を指揮して陸口からそのまま出撃し、合肥城への攻撃を開始した。 この時、曹操は合肥城に3人の将軍の張遼、楽進、李典と護軍の薛悌を置いていたが、兵力は7000人弱しかおらず、3将軍の仲は悪かった。楽進と張遼は仮節された上位の将軍であったが、かつて潁川を彼等が守備していた時はいがみ合って協調しないことが多かったため、趙儼の仲裁によって統制されていた。張遼と李典が不和である理由には明確な記述はないが、張遼が呂布の部将であった時、李典は一族の長であった伯父を呂布の配下に殺されている。孫権軍が迫り、薛悌が曹操から預かっていた命令書を3将軍と共に開封すると、「もし孫権が来たならば張遼と李典は出撃せよ。楽進は護軍の薛悌を守り、戦ってはならない」と書いてあった。みな曹操の意図を理解できなかったが、張遼は「公(曹操)は遠征で外におり、救援が到着する頃には敵は我が軍を破っているに違いない。だからこそやつらの包囲網が完成せぬうちに迎撃し、その盛んな勢力をくじいて人心を落ち着かせ、その後で守備せよと指示されている。成功失敗の契機はこの一戦にかかっているのだ。諸君は何をためらうのだ」と主張した。李典はこれに賛成し、「国家の大事にあって顧みるのは計略のみ。個人的な恨みで道義を忘れはしない」と断言し、張遼と共に出撃する事となった。 張遼は夜中に敢えて自らに従うという兵を選別し800人を集め、牛肉を将兵に振る舞い、明け方に出撃すると伝えた。 明け方、張遼は鎧を着込み戟を持ち自ら先鋒となって孫権の本陣に斬り込み、数十人の兵と2人の将校を斬り、孫権の眼前に迫った。徐盛が負傷し牙旗を奪われて逃走したが、賀斉が牙旗を奪い返し、潘璋が逃亡兵を斬って士気の崩壊を防いだため、前線に戻った。孫権は長戟を振るって身を守りつつ高い丘の上に逃走した。孫権は張遼の率いる軍が寡兵である事を見てとり張遼の軍を幾重にも包囲した。 張遼は左右を指差し左右から包囲を突破すると見せかけ、敵軍の意表を突き包囲の中央を急襲。張遼以外は数十人の兵しか脱出する事が出来ず、残りの兵は包囲の中に取り残された。残された兵たちが「将軍は我らを見棄てられるのですか」などと叫んでいるのを聞くと張遼は再び包囲に突撃し残された兵を救出した。孫権軍は張遼の凄まじい攻撃に意気消沈し、脱出していく張遼に敢えて攻撃しようとはしなかった。結局張遼は明け方から日中まで戦い続け、孫権軍は戦意を喪失したと判断し、城まで後退し守備を固めた。 その後孫権は合肥城を攻囲したが陥落させる事ができず、陣中に疫病が発生したこともあって10日目で退却を開始した。孫権は自ら最後衛に位置し、武将らとともに撤退の指揮を執っていた。この時川の北岸側には近衛兵1000人弱と、呂蒙・蔣欽・凌統・甘寧が残っているのみであり、一緒に食事をする。張遼はその様子を窺い知ると、楽進ら7000人と襲撃をかけ、孫権軍を幾重にも包囲した。孫権は馬上から弓矢で急襲に応じた。凌統が配下300人と共に包囲を破り、将らが死に物狂いで防戦している間孫権は橋にまで来る事ができたが、橋はすでに張遼らの手によって1丈(3m)余り撤去されていた。孫権の側仕えの谷利が孫権の馬に後ろから鞭を当てて馬に勢いをつけさせ、孫権の乗る馬は橋を飛び越した。賀斉は3000人を率れて孫権を迎える。孫権は船に戻って諸将と会して食事を続けたが、賀斉は孫権の安危を心配して、席を下りて涕泣した。孫権は賀斉を慰め、二度とそんな危険なことをしないと誓った。 凌統は孫権が橋を渡った後再び戻って奮戦したが、配下は皆死に、自らも全身に傷を負いながら数十人を斬った。孫権が無事撤退した頃を見計らって自らも撤退したが、橋は壊れていたので革の鎧を着たまま河に飛び込んだ。船に乗っていた孫権は凌統が無事帰還すると狂喜した。 張遼は孫権の容貌を知らなかった。孫権が1000人の中でとても目立つので、後に張遼は「勇武と騎射を備えた紫髯の将軍は何者だ」と問うと、孫権軍の降兵から自らが目撃した将軍が孫権その人であった事を知り、楽進に「あれが孫権と知っていれば急追して捕まえられただろう」と言って、捕まえ損ねた事を惜しんだ。
※この「第二次戦役(215年)」の解説は、「合肥の戦い」の解説の一部です。
「第二次戦役(215年)」を含む「合肥の戦い」の記事については、「合肥の戦い」の概要を参照ください。
- 第二次戦役のページへのリンク