第二次拓殖後の郡司
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1905年(明治38年)、ポーツマスで講和会議が開かれていることを知った郡司は、たまたまミルコフに来ていたフランス人の毛皮商に、小村寿太郎外相への手紙を託す。この手紙はアメリカ人船長の手を経て小村の元へ渡り、ポーツマス条約第11条にある漁業権設定に活かされたといわれる。 同年9月5日のポーツマス条約締結に伴い、郡司は解放され日本に帰国した。翌1906年(明治39年)ごろから再び報效義会を率いて活動を始め、1908年(明治41年)には、「露領沿海州水産組合」(3年後に露領水産組合と改称)の組合長にも就任するなどしている。しかし、このころの報效義会はかつてとは異なり、その活動はただの漁業団と変わることはなくなっていた。その上、ラッコ禁漁の決定(ラッコの毛皮は高値で取引されたため、会の重要な資金源となっていた)や、社運を賭けていたサケ缶詰の売り上げ不振など、その事業はけしてうまくいったものではなかった。 1910年(明治43年)には、郡司と袂を分かった後に南極探検を志していた白瀬矗が、かつての郡司同様に用船問題が難航したため、報效義会の漁船「第二報效丸」を譲ってほしいと頼んできた。郡司は一度はこれを断ったが、最終的に大隈重信の説得などもあって承諾している。 1915年(大正4年)、郡司は参謀本部第二部からの指令を受けシベリアに赴いた。この任務については記録が残っておらず、また郡司も何も語らなかったため詳細は不明であるが、第一次世界大戦の最中であったことから何らかのスパイ活動を行なっていたのではないかとみられている。 シベリアからの帰国後は、心臓を患ったこともあって隠遁するような生活を送った。郡司は1924年(大正13年)8月15日、心臓麻痺のため63歳で没した。郡司の墓所は池上本門寺にある。 なお、別所一家は郡司の死後も占守島に残りつづけたが、第二次世界大戦後のソ連進駐に伴って島を離れ、報效義会はここに完全消滅した。 報效義会の関係者が1919年建立した石碑「志士之碑」(幸田露伴揮毫)が、弾痕だらけといえども現存していることが確認されている。
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