第二次拓殖後の郡司とは? わかりやすく解説

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第二次拓殖後の郡司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 09:55 UTC 版)

郡司成忠」の記事における「第二次拓殖後の郡司」の解説

1905年明治38年)、ポーツマス講和会議開かれていることを知った郡司は、たまたまミルコフに来ていたフランス人毛皮商に、小村寿太郎外相の手紙を託すこの手紙はアメリカ人船長の手経て小村元へ渡りポーツマス条約第11条にある漁業権設定活かされといわれる同年9月5日ポーツマス条約締結に伴い郡司解放され日本に帰国した。翌1906年明治39年)ごろから再び報效義会率いて活動始め1908年明治41年)には、「露領沿海州水産組合」(3年後に露領水組合改称)の組合長にも就任するなどしている。しかし、このころ報效義会はかつてとは異なりその活動はただの漁業団と変わることはなくなっていた。その上ラッコ禁漁決定ラッコ毛皮高値取引されたため、会の重要な資金源となっていた)や、社運賭けていたサケ缶詰の売り上げ不振など、その事業はけしてうまくいったものではなかった。 1910年明治43年)には、郡司袂を分かった後に南極探検志していた白瀬矗が、かつての郡司同様に用船問題難航したため、報效義会漁船第二報效丸」を譲ってほしいと頼んできた。郡司一度はこれを断ったが、最終的に大隈重信説得などもあって承諾している。 1915年大正4年)、郡司参謀本部第二部からの指令を受けシベリア赴いた。この任務については記録残っておらず、また郡司も何も語らなかったため詳細不明であるが、第一次世界大戦最中であったことから何らかのスパイ活動行なっていたのではないかとみられている。 シベリアからの帰国後は、心臓患ったこともあって隠遁するような生活を送った郡司1924年大正13年8月15日心臓麻痺のため63歳没した郡司墓所池上本門寺にある。 なお、別所一家郡司死後占守島残りつづけたが、第二次世界大戦後ソ連進駐伴って島を離れ報效義会はここに完全消滅した。 報效義会関係者1919年建立した石碑志士之碑」(幸田露伴揮毫)が、弾痕だらけといえども現存していることが確認されている。

※この「第二次拓殖後の郡司」の解説は、「郡司成忠」の解説の一部です。
「第二次拓殖後の郡司」を含む「郡司成忠」の記事については、「郡司成忠」の概要を参照ください。

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