呉を征伐とは? わかりやすく解説

呉を征伐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 03:34 UTC 版)

唐彬」の記事における「呉を征伐」の解説

しばらくして尚書水部郎に任じられ泰始年間初め265年頃)には、関内侯封じられた。その後、鄴県県令となって道徳礼儀持ってその地を治め1年かからず現地への教化完了させた。また弋陽太守にもなり、公然と禁令敷いて治安維持努め、民百姓安寧与えた。だが、母が亡くなると喪に服して官職去った当時益州は東を呉と接しており、戦略上重要な地であったが、監軍の職が空位であった朝議において、唐彬武陵太守楊宗いずれか任命しようという話になり、司馬炎武帝)は散騎常侍文立意見求めた文立は「楊宗唐彬は共に欠かすことのできない優秀な人材であります。しかし唐彬財欲強く楊宗酒癖が悪いという欠点あります。どちらがふさわしいかは、陛下ご判断仰ぎとうございます」と、答えた司馬炎は「財欲満たしてやればそれで済むが、酒癖改めるのは難しい」と言い唐彬任命することに決めた唐彬は監巴東諸軍任じられ、さらに広武将軍加えられた。彼が上奏して呉征伐の策を示すと、司馬炎は自らの意と合致していることに喜んだ279年11月唐彬王濬と共に征伐乗り出した唐彬軍は先鋒となり要道屯し、常に擬兵を設け、機を見極めて勝利を重ねていった。進軍続けて西陵・楽郷を陥落させ、多数敵兵捕虜とした。巴陵・河口以東の郡県では、唐彬恐れて投降する者が相次いだ唐彬は既に呉軍窮地に陥っていることを見て取ると、孫晧降伏するのは時間の問題であると判断した。この時、建業より二百里離れた場所にいたが、病と称して進軍止め戦功争い加わらないことを示した果たし先に建業到った者達は物を奪い合い、少し後に到達した者達は自らの功績主張し合ったこのため当時有識者達は唐彬振る舞い称賛した280年、呉が平定された後、司馬炎は「広武将軍唐彬辺境の任を受け、東に呉を防ぎ、南に蛮越を臨みながら、うまく国境落ち着かせ、国を治めて敵を御することに功績があった。また、幾度も征呉への強い意欲申し述べており、その志はついに功を立てるに至った征討命令を受けるや素早く行動移し、軍の前衛となり多く敵兵殺しもしくは捕虜とした。その勲功著しいものがある。よって右将軍都督巴東諸軍事に任ずることとする」と詔を下した。さらに唐彬は翊軍校尉拝命し、上庸県侯に改封となり、食邑六千戸、絹六千匹を下賜された。朝廷に疑議があった際、唐彬は常に参与するようになった

※この「呉を征伐」の解説は、「唐彬」の解説の一部です。
「呉を征伐」を含む「唐彬」の記事については、「唐彬」の概要を参照ください。

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