呉を征伐
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しばらくして、尚書水部郎に任じられ、泰始年間の初め(265年頃)には、関内侯に封じられた。その後、鄴県県令となって道徳と礼儀を持ってその地を治め、1年もかからずに現地への教化を完了させた。また弋陽太守にもなり、公然と禁令を敷いて治安維持に努め、民百姓に安寧を与えた。だが、母が亡くなると喪に服して官職を去った。 当時、益州は東を呉と接しており、戦略上重要な地であったが、監軍の職が空位であった。朝議において、唐彬と武陵太守の楊宗のいずれかを任命しようという話になり、司馬炎(武帝)は散騎常侍の文立に意見を求めた。文立は「楊宗・唐彬は共に欠かすことのできない優秀な人材であります。しかし唐彬は財欲が強く、楊宗も酒癖が悪いという欠点があります。どちらがふさわしいかは、陛下にご判断を仰ぎとうございます」と、答えた。司馬炎は「財欲は満たしてやればそれで済むが、酒癖を改めるのは難しい」と言い、唐彬を任命することに決めた。唐彬は監巴東諸軍事任じられ、さらに広武将軍を加えられた。彼が上奏して呉征伐の策を示すと、司馬炎は自らの意と合致していることに喜んだ。 279年11月、唐彬は王濬と共に呉征伐に乗り出した。唐彬軍は先鋒となり要道に屯し、常に擬兵を設け、機を見極めて勝利を重ねていった。進軍を続けて西陵・楽郷を陥落させ、多数の敵兵を捕虜とした。巴陵・河口以東の郡県では、唐彬を恐れて投降する者が相次いだ。唐彬は既に呉軍が窮地に陥っていることを見て取ると、孫晧が降伏するのは時間の問題であると判断した。この時、建業より二百里離れた場所にいたが、病と称して進軍を止め、戦功争いに加わらないことを示した。果たして先に建業に到った者達は物を奪い合い、少し後に到達した者達は自らの功績を主張し合った。このため、当時の有識者達は唐彬の振る舞いを称賛した。 280年、呉が平定された後、司馬炎は「広武将軍唐彬は辺境の任を受け、東に呉を防ぎ、南に蛮越を臨みながら、うまく国境を落ち着かせ、国を治めて敵を御することに功績があった。また、幾度も征呉への強い意欲を申し述べており、その志はついに功を立てるに至った。征討命令を受けるや素早く行動に移し、軍の前衛となり多くの敵兵を殺し、もしくは捕虜とした。その勲功は著しいものがある。よって右将軍・都督巴東諸軍事に任ずることとする」と詔を下した。さらに唐彬は翊軍校尉を拝命し、上庸県侯に改封となり、食邑六千戸、絹六千匹を下賜された。朝廷に疑議があった際、唐彬は常に参与するようになった。
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