吉見氏家臣時代とは? わかりやすく解説

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吉見氏家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/11 03:56 UTC 版)

伊藤元利」の記事における「吉見氏家臣時代」の解説

天正5年1577年)、吉見氏家臣伊藤時の嫡男として生まれる。 天正10年1582年)または天正12年1584年)、父・頼時は遺恨から実父方の一族である須子某を討ち果たしたが、相討ちとなって頼時も死去した。これによって、元利後を継ぐ天正20年1592年)から始まる文禄の役では、弟の就安と共に吉見元頼に従って毛利元康の軍に属し朝鮮渡海した。文禄2年1593年2月12日幸州山城の戦い武功立て、翌2月13日に元頼から感状与えられた。この感状において元頼は、自らが吉見氏所領引き継いだ時には元利所領与えることを約束したが、元頼は文禄の役から帰還した後の文禄3年1594年6月4日死去した。しかし、慶長3年1598年)に吉見氏家督相続した元頼の弟・吉見広行(広長)は、元頼の約束守ってか、同年3月12日120石の所領元利与えている。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏防長2ヶ国に減封された。これに伴って吉見氏石見国津和野離れることとなり、元利従った慶長9年1604年)には吉見広行毛利氏出奔したため、隠居していた広行の父・吉見広頼吉見氏当主代行することとなる。

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吉見氏家臣時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/11 04:19 UTC 版)

伊藤就安」の記事における「吉見氏家臣時代」の解説

天正6年1578年)、吉見氏家臣伊藤時の次男として生まれる。 天正10年1582年)または天正12年1584年)、父・頼時は遺恨から実父方の一族である須子某を討ち果たしたが、相討ちとなって頼時も死去した。これによって、兄の元利が後を継いだ天正20年1592年)から始まる文禄の役では、兄の元利と共に吉見元頼に従って毛利元康の軍に属し朝鮮渡海した。文禄2年1593年2月12日幸州山城の戦いで兄と共に武功立てる。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いの後に毛利氏防長2ヶ国に減封された。これに伴って吉見氏石見国津和野離れることとなり、就安も従った慶長9年1604年)には吉見広行毛利氏出奔したため、隠居していた広行の父・吉見広頼吉見氏当主代行することとなる。

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