吉見氏嫡流の隆盛と衰亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 02:45 UTC 版)
頼朝は平家の滅亡後、源氏一門の多くを謀反の罪として処刑し、吉見氏の祖である範頼もその例に漏れなかったが、子孫は源氏の名門として存続。執権北条氏が幕府の実権を握った後も命脈を保っていた。しかし、北条氏が武蔵の在地勢力を冷遇したためか[要出典]、為頼3代の子孫義世は謀反を企み事前に発覚したため、処刑される。その弟である義成、通任(通経)らも義世の与党として流刑となり、義世の子である尊頼も渋川氏に養子入りしていたため、吉見氏嫡流の命脈は絶え、宗家の家督と武蔵の所領は2代義春の弟で能登国の住人となっていた吉見頼宗の子、すなわち義春の甥である頼隆の系統に引き継がれた。これらは能登吉見氏、武蔵吉見氏と呼ばれる。
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