吉見事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)
同1931年の満州事変以来、日本では軍が力を増していた。一方で農民運動は先述の左右分裂により混乱が拡大していたが、1932年(昭和7年)2月に全農埼玉県連の第1回県連大会が開かれるほど、農民運動は活発化していた。黎子もまた寄居転居からこの2月までが、農民運動参加のピークを迎えていた。 同1932年2月2日、埼玉県比企郡西吉見村(後の吉見町)で全国農民組合支部の発会式と記念演説会が開催された。この際に立ち会いの警官による弁士中止、検束が続出し、解散が命じられ、これに約300人の聴衆たちが憤慨し、警察の横暴と同志奪還を叫んだ。このことで、県の特高課の指揮する警官隊約50人が会場に駆け込み、定輔たち幹部全13人が検挙され、大会文書も押収された。 黎子は同日、定輔や同志たちの救出のために、組合員たち約80名と共に熊谷署への道を走り、雪の降る荒川に腰まで浸かって川を渡った。翌2月3日未明に署に押し寄せた黎子たちは、署の付近で警官たちと乱闘となった末、逮捕された。後の定輔の談によれば、黎子は署に詰めかけた組合員たちと共に逮捕されたのではなく、その後の2月3日朝、定輔たち検束者の救援のため、農民婦人たちと共に署に差し入れに向かい、逮捕されたという。さらに同日朝には特高により、県内の全農の活動家の自宅から85名が検挙され、大量の関係文書が押収された。このために全農県連大会は、ついに開催されることはなかった。この1件は俗に「吉見事件」または「西吉見事件」と呼ばれており、定輔は後にこのことを、全農埼玉県連の第1回大会を壊滅させるための計画的弾圧だったと語っている。 逮捕された黎子は、署の2階の剣道場に連行され、警官たちによる拷問に遭った。その内容は、コンクリートに叩きつけられ、髪を掴まれて引きずり回され、全身を泥靴で踏みにじられ、竹刀で乱打され、脚気に痛む脚を蹴り飛ばされ、衣服を剥ぎ取られて体中が血と泥にまみれるという、壮絶なものであった。 一九三二年二月三日! この日は私が階級闘争に身を投じて以来、初めて支配階級の徹底的テロルに歯を喰いしばった日だ。(中略)より確固たる決意と彼ら支配階級に対する限りない科学的復讐心を燃え立たせた日だ。一九三二年二月三日! 彼等のテロルは私の肉体をさいなんだ。(中略)だが私は、肉体に受ける痛みに反比例して、意識はますます鮮明になって行った。そしてこの白色テロルに対して、耐え得る者のみが、真の同志たり得るし、またこのテロルを経てのみ、真の不撓不屈の闘士となり得るのだと考えた。 — 1932年2月3日付の日記(2月6日に執筆)、渋谷 1978, p. 265より引用
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