事件からの釈放後
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黎子は逮捕翌日の2月4日夜に釈放され、定輔は吉見事件から1か月以上後に釈放された。定輔が吉見事件での長期留置中に前述の大石村での負傷を悪化させていたことで、彼の看病を続けつつ、寄居を拠点として、同地での活動や埼玉県下での農民闘争にも参加した。 ローザや、リープクネヒトが殺された時代のような情勢が迫って来た。(中略)日和見主義、動揺、退却、そしてわれわれの力強さの生む極左的偏向! 一切の偏向を克服して、正常な左翼の軌道を前進せよ! 観念論者では駄目だ。 — 1932年4月7日付の日記、渋谷 1978, p. 271より引用 農民運動や定輔の看病の最中、南畑村の定輔の実家にも通って農業を手伝い、農繁期はかなり長期にわたって南畑に滞在した。南畑の黎子は、すっかり農業家になりきっていた。この地方の方言で、農婦が自分を「おれ」と呼ぶことから、黎子の同1932年6月5日の日記にも、一人称に自然と「おれ」を名乗ることが増えたと記されている。 農家での生活は、農民の生活を学習することにも繋がっていた。拷問で負傷してもなお、農民運動や農業の手伝いを続ける黎子の姿に、定輔は、かつて「正義派の御嬢さん」であった黎子が、現在では人間理解を格段に深めたことを感じていた。この黎子の成長の過程が、以下の日記に残されている。 私は今日、農民の中における重大なことを新しく発見した。それは農民が、他人に対して言う意見と、家庭内での意見とは全く反対なことが多いということだ。これこそ私の今までの農民の観方・考え方を、根本的に覆し、新たな目を開かされた。私はここに、自分の今までの人の良さ、そして、理論的、実際的認識の不足が、腹立たしくさえ感じられた。 — 1932年6月7日付の日記、渋谷 1978, p. 273より引用 同年7月、寄居移転以降の婦人部作りの活動を整理したことで、前述の『全農埼玉県連婦人部報告書』を長文の詳細かつ具体的な書類として完成させ、県連に提出した。 同1932年夏、定輔が猛暑の中で小作争議を争う内に、負傷を悪化させたため、静養の地を求めて夫妻で定輔の実家へ転居した。しかし1か月が経過しても回復が芳しくなかったため、黎子のみが実家へ移り、郷里に近い湯治場を捜した末、同年10月に福島の土湯温泉に夫妻で転居し、長期療養生活に入った。運動の戦列から離れた夫妻は、土湯温泉での湯治宿の一室で静養し、自炊して生活した。この生活は、農民運動に生涯を捧げていた黎子たちにとって、夫妻として最初で最後の、穏やかで幸福な日々であった。
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