事件からの釈放後とは? わかりやすく解説

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事件からの釈放後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 21:36 UTC 版)

渋谷黎子」の記事における「事件からの釈放後」の解説

黎子は逮捕翌日2月4日夜に釈放され、定輔は吉見事件から1か月上後釈放された。定輔が吉見事件での長期留置中に前述大石村での負傷悪化させていたことで、彼の看病続けつつ、寄居拠点として、同地での活動埼玉県下での農民闘争にも参加したローザや、リープクネヒト殺され時代のような情勢迫って来た。(中略日和見主義動揺退却、そしてわれわれの力強さ生む極左的偏向! 一切偏向克服して正常な左翼軌道前進せよ! 観念論者では駄目だ。 — 1932年4月7日付の日記渋谷 1978, p. 271より引用 農民運動や定輔の看病最中南畑村の定輔の実家にも通って農業手伝い農繁期はかなり長期わたって南畑滞在した南畑の黎子は、すっかり農業家になりきっていた。この地方方言で、農婦自分を「おれ」と呼ぶことから、黎子の同1932年6月5日日記にも、一人称自然と「おれ」を名乗ることが増えた記されている。 農家での生活は、農民の生活を学習することにも繋がっていた。拷問負傷してもなお、農民運動農業の手伝い続ける黎子の姿に、定輔は、かつて「正義派御嬢さんであった黎子が、現在では人間理解格段に深めたことを感じていた。この黎子の成長過程が、以下の日記残されている。 私は今日農民中における重大なことを新しく発見した。それは農民が、他人に対して言う意見と、家庭内での意見とは全く反対なことが多いということだ。これこそ私の今まで農民の観方・考え方を、根本的に覆し新たな目を開かされた。私はここに、自分今までの人の良さ、そして、理論的実際的認識の不足が、腹立たしくさえ感じられた。 — 1932年6月7日付の日記渋谷 1978, p. 273より引用 同年7月寄居移転以降婦人作り活動整理したことで、前述の『全農埼玉県婦人報告書』を長文詳細かつ具体的な書類として完成させ、県連提出した。 同1932年夏、定輔が猛暑の中で小作争議を争う内に、負傷悪化させたため、静養の地を求めて夫妻で定輔の実家転居した。しかし1か月経過して回復芳しくなかったため、黎子のみが実家移り郷里に近い湯治場を捜した末、同年10月福島土湯温泉夫妻転居し長期療養生活に入った運動の戦列から離れた夫妻は、土湯温泉での湯治宿の一室静養し自炊して生活した。この生活は、農民運動生涯捧げていた黎子たちにとって、夫妻として最初で最後の、穏やかで幸福な日々であった

※この「事件からの釈放後」の解説は、「渋谷黎子」の解説の一部です。
「事件からの釈放後」を含む「渋谷黎子」の記事については、「渋谷黎子」の概要を参照ください。

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