旧大内家の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 05:30 UTC 版)
弘治元年(1555年)から始まった毛利元就の防長経略によって大内氏は滅亡し、周防・長門国は毛利領となった。大内家臣の多くは新たな領主となった毛利氏に従ったが、これに不満を持つ大内遺臣もいた。毛利氏の支配が始まった直後から、毛利氏の支配が確立して間もない弘治3年(1557年)11月には、旧大内氏の重臣格であった杉氏・内藤氏・問田氏らが大内義隆の遺児とされる問田亀鶴丸を奉じて挙兵、山口近郊の障子岳に籠もった。この反乱は、毛利氏の支配を覆すべく挙兵した大規模なものであったが、毛利家臣となっていた内藤隆春・杉重良らが鎮定。その後も、小規模の反乱が山口周辺で発生するも、山口支配責任者として高嶺城に入っていた市川経好がよく平定して毛利氏の支配を強化していた。 一方、豊後国の戦国大名・大友氏の客将に、大内義興の弟である大内高弘の子大内輝弘がいた。高弘は大友親治(大友宗麟の曽祖父)の誘いに乗り、大内重臣杉武明と謀って義興に謀反を起こしていたが、失敗して豊後国に亡命していた。輝弘は山口に帰国して大内家を再興しようとしていたが、頼ろうとした大内家残党(陶・内藤旧臣)が永禄8年(1565年)6月に周防屋代島に集まったところで毛利麾下の来島通康勢に討ち取られてしまっていた。
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