秀政と共に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 22:39 UTC 版)
天文16年(1547年)、尾張中島郡奥田庄にて、奥田直純の子として生まれる。従弟・堀秀政の伯父の一向宗の僧のもとで、秀政と共に幼少期を過ごす。この伯父が2人に、先に手柄を立てた方にもう一方が従い協力して家名を興すよう諭し、秀政が先に手柄を立てたので直政はその家臣になったといわれる。なお、この種の逸話は加藤清正など他の武将にも見られ、創作との指摘もある。 秀政は13歳から織田信長の小姓になるが、直政も同時期に信長の配下になったと思われる。以後、直政は秀政の補佐をしていたとされるが、この時期の直政の史料は乏しい。『寛永諸家系図伝』には、伊賀亀甲城攻めで精兵を率いて先登し信長に賞された、伊勢峰城攻めで功を挙げたとある。信長の死後は秀政と共に豊臣秀吉に従い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、雑賀攻め、四国攻め、九州征伐、小田原征伐に従軍した。 山崎の戦いの後、明智秀満の坂本城を包囲した時、秀満はしばらくは防戦したが、天主に篭り、国行の刀・吉光の脇指・虚堂の墨蹟などの名物がなくなることをおそれて、これを荷造りし、目録を添えて堀秀政の一族の直政のところへ贈った。このとき直政は目録の通り請取ったことを返事したが、光秀が秘蔵していた郷義弘の脇指が目録に見えないがこれはどうしたのかと問うた。すると秀満は、この脇指は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差すと答えたとされる。 特に賤ヶ岳の戦いでは、十文字槍を片手に柴田勝家の金の馬印を奪っており、これを奪い返そうとした小塚藤右衛門を組み伏せ討ち取ったといわれている(『寛政重修諸家譜』)。
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