秀才と商売
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少年時代の陸伯鴻もその他の中国の子供と同じように、学ぶのに十年の困難と辛苦を経ななければならなかった。彼は四書五経を学び、18歲で幸運にも秀才を取った。だが、1905年、清朝政府は科挙制度の廃止を宣言したので、大くの読書子は転じて新しい型の学校に進み、改めて外国に関することを学んだ。この時、陸家も陸伯鴻を董家渡司教座聖堂の龔神父に送り、そこでフランス語を学ばせ、後に『法華新字典』の編纂に加わった。この後、ベルギー洋行の職員とフランス租界の蒲石弁護士事務所の秘書を務めた。 20世紀初め、陸伯鴻は上海全商業会議所の代表となり、アメリカ、イタリア、スイス等に赴き、観光と視察調査をし、ローマ教皇の謁見を受けた。帰国後は実業を起こして国を救う計画を立て、その後続けて一連の工業、商業、交通等の企業を興し、上海の中国商人のリーダーとなった。 1911年、李平書の推薦により、陸伯鴻は接辦倒産の危機に直面した上海内地電灯公司の経営を引き継いだ。彼は管理をしっかりとさせ、経営上の損失を補って収入を増加させ、さらに経営規模を拡大した。数年の内に南市中国地界の電灯の数は元の1000余りから7万に激増し、中国地界と租界の市政建設方面での格差は迅速に縮小した。 1912年4月、上海では城壁を取り壊して大通りに改築して法華民国路(今の人民路)と中華路にし、陸伯鴻はこの機会を利用して20万元を出資し、上海華商電車公司を創立し、上海華界で初の路面電車を開通させ、電車はこの市を囲む円形の大通りの上を走った。この線路の沿線は全て上海の旧市街で、人は緻密であり、とても早く客の流量を見ることが出来ると予想された。陸伯鴻は華商電車公司の全ての電車の先頭に自分の名前をもじった緑、白、赤3色の電灯を取り付けて顧客を招き寄せた。開業してから華商電車の乗客は非常に多かったので、この後ずっと良好な経営業績を保った。1918年1月、電灯公司と電車公司は合併し、“上海華商電気股份有限公司”と改名した。1935年、南市の半淞園で新しい電力会社を建てた。1937年の日中戦争前夜に至るまで上海華商電気公司が每年得た利益は100万元に達した。陸伯鴻は電力工業方面で得た功績により、全国民栄電業連合会委員長を担当した。 1913年11月、陸伯鴻は第一次世界大戦前夜の国際市場での鉄鋼価格の急速な値上がりの機会をつかんで、浦東の周家渡で製鉄所を創業して銑鉄を生産した。1921年、彼はドイツの商社との合資により成和興鉄鋼工場を拡張して、品質が最上の異型棒鋼を生産出来るようにし、江海関ビル、沙遜大廈、閘北水力発電所、フランス商社の元々之水道所と南京の中山陵の建造する需要に供した。1949年以後は名を上海第三製鉄所と改めた。 陸伯鴻はまた大通航業公司を創業し、朱志堯の造船所のドックで“隆大”、“志大”と“正大”の3艘の客船を建造した。陸伯鴻はこのために上海航業同業公会執行委員となった。 1924年、陸伯鴻はさらに閘北水電公司の経営を引き継いだ。
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