1949年以後
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「臨済寺 (河北省)」の記事における「1949年以後」の解説
1983年に漢族地区仏教全国重点寺院に指定された。1984年には正式に仏教界の管理下に入り、仏教の布教伝道及び修道活動が開放された。 日中両国の臨済宗と黄檗宗は、共に臨済寺を奉じて祖庭とした。1979年5月、日本の臨済・黄檗二宗は、連合して日中友好臨黄協会を設立した。1980年より、每年代表団を派遣して訪中し、臨済禅師塔を朝拝し、併せて出資修築している。1985年には、日本の臨済・黄檗二宗の僧侶の出資援助及び、当地政府の出資により、澄霊塔を修築した。その後また、逐次、大雄宝殿、祖堂、寺舎などを修築している。 1986年5月19日には、寺内にて祖塔修復落成儀式と誦経の法会を挙行し、日中友好臨黄協会訪中団100人及び当地の仏教信徒が共同して参加した。 1988年5月15日、河北省仏教協会が寺内に設立され、浄慧法師が会長に任命された。
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1949年以後
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1949年に中華人民共和国が樹立した後、ハーフンガーは依然として内モンゴル自治区の副主席であるが、他の民族独立派の幹部と共に名誉な官職を与えられ、厚遇されながらも、権力中枢から排除されていた。その一方、実権のポストは殆ど、ウランフに代表される延安共産派と後に内モンゴルへ派遣された漢民族幹部により握られていた。モンゴル語も分からないトゥムド左旗出身のウランフは内モンゴル自治区の主席に就いた一方、内モンゴル自治区の中国共産党委員会の第一書記も兼任していた。このような「東西両派」、即ち民族独立派と延安共産派に構築されていた幹部構造は文化大革命まで続いていた。
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