1949年以降の歴史 (DDR)
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「東ドイツ文化連盟」の記事における「1949年以降の歴史 (DDR)」の解説
あらゆる水準で、SEDのノーメンクラトゥーラがいて、幹部の選出には、その都度党委員会の同意が必要であった。東ドイツの他の大衆組織と比べると、文化連盟の会員は比較的にSEDとの結びつきは弱かった。文化連盟での役職は、キャリアにはならず、「窓際族で閑職」であった。会員数が圧倒的に多かった(1985年には26万人以上だった)のは、文化連盟には全国規模で組織されうる唯一の可能性があると思った地元好きや収集家が多かったからで、文字通り芸術家だったのは、およそ3分の1であった。文化連盟の管理員会が、党の政策のプロパガンダを行なっていたのに対して、制作・作業グループ自体は、非政治的でニッチであった。 多くの作家は文化連盟には入会せず、その代わりに、例えば1950年に「作家保護団体」(のちに東ドイツ作家連盟(ドイツ語版))、1949年にベルリン作家連盟などを結成した。ベルリン作家連盟設立時の中心人物であったヴァルター・ヴィクトア(ドイツ語版)は、文化連盟議長ベッヒャーに対して次のように記している。「法律のアドバイスや利益代表をしているだけで、事が足りるとは思いません」。この批判をベッヒャーはまじめに受取り、SEDの事務局に「ドイツ人作家の保護団体を改善し、そこから良い作家連盟を作ることが今すぐにでも必要だと思います」と書いている。 1954年、ベルリンで「ドイツの民主的刷新のための文化連盟」の市民運動のために学術知識普及学会(ドイツ語版)が設立され、1966年には「URANIA – 学術知識普及学会」に改称した。文化連盟も名称変更を行い、1958年からは「ドイツ文化連盟」、1974年からドイツ再統一後に解散する1990年までは「東ドイツ文化連盟」となった。文化連盟は、東ドイツ国民戦線(ドイツ語版)の下部組織であり、人民議会に議席を持っていた。 1980年代初頭には、たくさんの「中央労働サークル」から次の組織が結成された。 東ドイツ文化連盟エスペラント協会(ドイツ語版) 文化遺産保全学会(ドイツ語版) 自然・環境学会(ドイツ語版) 郷土史学会(ドイツ語版) 写真学会(ドイツ語版) さらに文化連盟内には以下のグループもあった。 知識人クラブ(ドイツ語版) ピルクハイマー学会(ドイツ語版) フリードリヒ・シラー作業部会(ドイツ語版) 東ドイツ切手収集協会 文化連盟のアーカイブは、今日ではその大部分が連邦公文書館にある。
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