戦争への参加と「中国の喪失」論争とは? わかりやすく解説

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戦争への参加と「中国の喪失」論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/21 20:28 UTC 版)

ジョン・キング・フェアバンク」の記事における「戦争への参加と「中国の喪失」論争」の解説

1941年太平洋戦争がはじまると、フェアバンクは軍務につくことになり、戦略情報局(OSS)や戦時情報局 (OWI)などの仕事中国国民党政府臨時首都があった重慶にも派遣されている。この地でフェアバンクは他の外国人たち感じたように、蔣介石政権腐敗ぶりをみて、国民党対す印象をかなり悪くした。 戦後ハーバード大学もどってくると、フェアバンクはアジア研究修士課程開設した当時ハーバードアメリカでアジア研究プログラム有する主要な大学ひとつだった。ハーバード地域研究個々学問領域とらわれることなくジャーナリスト政府職員など学界以外で活動するひとたちのための訓練ほどこしていた。こうした幅広いアプローチは、フェアバンクの戦中中国体験ともあいまって、『アメリカと中国』として結実した本書1958年70年にも版を重ね学生だけでなく、一般ひとたちにもこの分野の学問成果提供してきた。1960年代には台北中華語文研修所で在外研究し、中国語学んでいる 。『アメリカと中国』は、1972年ニクソン訪中以前から、米中双方リーダーたちに読まれていた。 フェアバンクはいわゆる中国派 (China Hands)」で、毛沢東中国共産党勝利を予想しアメリカ新政府との国交樹立主張してきた。フェアバンクの考えではこれこそがアメリカ国益にかなうものであったが、多くアメリカ人たちは共産主義ソ連影響広め同盟者売り渡した犯人として中国派(チャイナ・ハンズ)を非難した1949年には共産主義に対して弱腰」だとフェアバンクは攻撃され日本訪問ビザ下りないことさえあった。皮肉なことに1949年以後アメリカから中国戻ったフェアバンクの友人同僚たちは、彼とは逆にのちのち親米的」だといって非難されることになった中国共産党がより厳格な共産主義走ったとき、費孝通陳翰はそうした攻撃対象となった

※この「戦争への参加と「中国の喪失」論争」の解説は、「ジョン・キング・フェアバンク」の解説の一部です。
「戦争への参加と「中国の喪失」論争」を含む「ジョン・キング・フェアバンク」の記事については、「ジョン・キング・フェアバンク」の概要を参照ください。

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