戦争への参加と「中国の喪失」論争
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「ジョン・キング・フェアバンク」の記事における「戦争への参加と「中国の喪失」論争」の解説
1941年に太平洋戦争がはじまると、フェアバンクは軍務につくことになり、戦略情報局(OSS)や戦時情報局 (OWI)などの仕事で中国国民党政府の臨時首都があった重慶にも派遣されている。この地でフェアバンクは他の外国人たちが感じたように、蔣介石政権の腐敗ぶりをみて、国民党に対する印象をかなり悪くした。 戦後ハーバード大学にもどってくると、フェアバンクはアジア研究の修士課程を開設した。当時のハーバードはアメリカでアジア研究プログラムを有する主要な大学のひとつだった。ハーバードの地域研究は個々の学問領域にとらわれることなく、ジャーナリストや政府職員など学界以外で活動するひとたちのための訓練もほどこしていた。こうした幅広いアプローチは、フェアバンクの戦中の中国体験ともあいまって、『アメリカと中国』として結実した。本書は1958年と70年にも版を重ね、学生だけでなく、一般のひとたちにもこの分野の学問成果を提供してきた。1960年代には台北の中華語文研修所で在外研究し、中国語を学んでいる 。『アメリカと中国』は、1972年のニクソン訪中以前から、米中双方のリーダーたちに読まれていた。 フェアバンクはいわゆる「中国派 (China Hands)」で、毛沢東と中国共産党の勝利を予想し、アメリカと新政府との国交樹立を主張してきた。フェアバンクの考えではこれこそがアメリカの国益にかなうものであったが、多くのアメリカ人たちは共産主義とソ連の影響を広め、同盟者を売り渡した犯人として中国派(チャイナ・ハンズ)を非難した。1949年には共産主義に対して「弱腰」だとフェアバンクは攻撃され、日本訪問のビザが下りないことさえあった。皮肉なことに、1949年以後にアメリカから中国へ戻ったフェアバンクの友人や同僚たちは、彼とは逆にのちのち「親米的」だといって非難されることになった。中国共産党がより厳格な共産主義に走ったとき、費孝通や陳翰笙はそうした攻撃の対象となった。
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