戦争への支持
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)
バルカン半島ではアンテ・トルムビッチ(英語版)などのユーゴスラヴィア主義者(英語版)がユーゴスラヴィア人をオーストリア=ハンガリーなど諸外国から解放して、独立ユーゴスラヴィアを建国することを望んだため、戦争を強く支持した。1915年4月30日、トルムビッチ率いるユーゴスラヴィア人協会(英語版)がパリで成立、直後にロンドンに移った。1918年4月にはローマで「圧迫された民族の会議」(Congress of Oppressed Nationalities) が行われ、チェコスロバキア人、イタリア人、ポーランド人、トランシルヴァニア人、ユーゴスラヴィア人の代表が連合国にオーストリア=ハンガリーの住民による民族自決を支持するよう求めた。 中東ではトルコの民族主義と呼応してアラブ民族主義(英語版)も高揚、汎アラブ国家の建国が叫ばれるようになった。1916年、アラブ反乱がオスマン帝国の中東領で起こり、独立を目指した。 東アフリカではダラーウィーシュ国がソマリランド戦役(英語版)でイギリスと戦っていたが、エチオピア帝国のイヤス5世はダラーウィーシュ国を支持した。ドイツ駐アディスアベバ大使フリードリヒ・ヴィルヘルム・カール・フォン・シルベルク(ドイツ語版)は「エチオピアがイタリア人を追い出して紅海沿岸を奪回、帝国を以前の規模に回復する時が来た」と述べた。エチオピア帝国は中央同盟国側で参戦する瀬戸際まできたが、同盟国がエチオピアにおける独裁について圧力をかけたことでイヤス5世が廃位されたため参戦が取り止めとなった。 社会主義政党の一部は1914年8月の開戦時点では戦争を支持した。ヨーロッパの社会主義者は民族主義についての意見が分かれたが、愛国心による戦争への支持がマルクス主義者などの急進派が持つ階級闘争の概念、そして労働組合主義を圧倒した。開戦すると、イギリス、オーストリア、ドイツ、フランス、ロシアの社会主義者は民族主義の時流に従って自国の参戦を支持した。 当時アメリカで活躍していたイギリス人のチャーリー・チャップリンや日本人の早川雪洲は、アメリカの戦時公債発売委員に推薦され、特に早川は日本の同盟国のアメリカの国債を6万ドルも買ってアメリカ人を驚かせた。さらに友人知人にも盛んに公債の購入を勧め、1918年には『バンザイ』(Banzai) という公債販売促進のための映画まで撮って、アメリカを助けた。 イタリア民族主義(英語版)は戦争により高揚、初期には様々な政治会派からの支持を受けた。最も活動的で支持を受けたイタリア民族主義者の一人はガブリエーレ・ダンヌンツィオであり、彼はイタリア民族統一主義を宣伝、イタリア大衆を参戦支持に動かした。イタリア自由党のパオロ・ボセッリ(英語版)は連合国側で参戦することを支持してそれを宣伝、ダンテ・アリギエーリ協会をイタリア民族主義の宣伝に利用した。 イタリアの社会主義者は戦争を支持すべきか反対すべきかで意見が分かれた。ベニート・ムッソリーニやレオニーダ・ビッソラティ(英語版)などは支持したが、イタリア社会党は反軍国主義の抗議を行った者が殺害されると戦争反対の方針を決定、6月に赤い一週間(英語版)と呼ばれるゼネラル・ストライキを行った。社会党はムッソリーニなどの参戦を支持した党員を除名した。労働組合主義者だったムッソリーニはイタリア民族統一主義に基づき、オーストリア=ハンガリーのイタリア人地域の併合を支持、1914年10月に『イル・ポポロ・ディタリア(英語版)』を創刊し、国際行動のための革命ファッシ(イタリア語版)を設立。後に1919年のイタリア戦闘者ファッシに発展し、ファシズムの起源となった。ムッソリーニが民族主義を支持したことで、彼はアンサルド(軍備会社)などの会社から募金して『イル・ポポロ・ディタリア』の創刊に必要な資金を集めた。彼はこの新聞で社会主義者などを説得して戦争を支持させた。
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