久野城とは? わかりやすく解説

久野城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/24 16:53 UTC 版)

logo
久野城
茨城県
別名 延命寺山城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 土岐氏
築城年 永禄年間(1558年1570年)か
主な城主 土岐越前守ト千
廃城年 天正18年(1590年
遺構 空堀土塁
指定文化財 なし
位置 北緯35度58分35.2秒 東経140度12分58.7秒 / 北緯35.976444度 東経140.216306度 / 35.976444; 140.216306
地図
久野城
テンプレートを表示

久野城(くのじょう)は、茨城県牛久市久野町にあった日本の城

地理

JR常磐線牛久駅の東へ約6.5キロメートル、乙戸川北岸の台地上に位置している。城の南側は幅広い谷津田がひらけ、西および北側は牛久大仏に隣接している。城の占地する地形は舌状台地というより、むしろ独立丘に近い形と言える。小字名は延命寺山で、昔は寺院が建てられていたと言われている。

歴史

江戸崎城を本拠とする土岐氏によって戦国時代木原城と龍ケ崎城の中継拠点として築かれたようである[1]

久野の観音寺の棟札には、永禄2年(1559年)には野口備前守の支配であり、天正5年(1577年)の棟札には、当郷領主土岐越前守と名前がある、この時点では土岐氏の支配下にあったことがわかる。久野城主の土岐越前守ト千(ぼくぜん)は、久野城を中心に下小池城などの支城と連携して西側を防備していたものと思われる。土岐氏の進出後、野口氏はその下で働き、土着し現在に至ったと考えられる。久野城の郭内には野口一族の墓地がある。

城の構造

台地の南隅、主郭にあたる曲輪1には東北と西北に土塁、西北と西南に空堀、そして東南の斜面には二段ずつの腰曲輪がある。曲輪2は城内で最も広い面積を占め、外郭と思われる。曲輪3と4はL字型の空堀により分断される。曲輪1と2に面する空堀土塁があり、曲輪3の南斜面に二~三段の腰曲輪がある。曲輪3と4の北斜面に細長い腰曲輪が2~3段ある。曲輪1の虎口が東南と西北にある。

城の性格

軍事的機能を優先させた城としてのイメージが強いようである。西・北方面に対する極度な防護体勢や広い面積の曲輪Ⅱによって裏付けられる。

脚注

  1. ^ 牛久市文化財ガイドブック”. 牛久市. 2025年2月24日閲覧。

参考資料

  • 牛久市史 原始中世古代編




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「久野城」の関連用語

久野城のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



久野城のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの久野城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS