三善長衡とは? わかりやすく解説

三善長衡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/23 14:56 UTC 版)

三善 長衡(みよし の ながひら、仁安3年(1168年)- 寛元2年3月25日1244年5月3日)は、鎌倉時代初期の官人。行衡の子。平安時代末期の数学者三善為康養子行康を祖父とする。

建久9年1月30日(1198年3月16日)、父の行衡の譲を受けて、算博士に任ぜられた。その後、主税権助主税頭陸奥などの官職を歴任する一方で、当初は摂関家、後に西園寺家家司となり、西園寺公経の信任を受けて同家の所領経営などにあたる[1]

承久の乱開戦直前に後鳥羽上皇によって公経が囚われると、秘かに鎌倉に使者を送って、上皇の挙兵計画と京都守護伊賀光季の殺害を知らせた。また、幕府軍宇治川を越えると京都入りの手引きをしたと伝えられている。

脚注

  1. ^ 龍粛『鎌倉時代』(文春学藝ライブラリー、2014年) ISBN 978-4-16-813033-5 西園寺家の興隆とその財力 p306~p311。




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