脱藩後の活動とは? わかりやすく解説

脱藩後の活動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 04:33 UTC 版)

吉村虎太郎」の記事における「脱藩後の活動」の解説

吉村宮地とともに長州久坂玄瑞頼り海路大坂入り長州藩邸で越後国志士本間精一郎合流した上方には平野国臣真木保臣清河八郎藤本鉄石有力な浪士たちが集結して島津久光の上洛を待ちわびていた。平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光真意は全く異なり公武合体であった浪士動き知った久光驚き鎮撫命じ4月23日伏見寺田屋において有馬新七過激尊攘派藩士粛清断行し挙兵計画失敗した寺田屋騒動)。翌日吉村宮地も捕えられ薩摩藩邸に移送された。薩摩藩では挙兵計画参加した他藩の脱藩者出身藩に引き渡すこととし30日吉村らの身柄土佐藩引き渡されて、国元送還された。船中吉村挙兵の手始め諸侯ではなく浪士の任である旨の書取を残している。土佐吉村は8ヶ月間、禁獄される。やがて政情尊攘派有利になり、諸藩安政の大獄寺田屋騒動関係者などの赦免が行われるに伴い間崎哲馬らの斡旋もあって同年12月吉村釈放された。 文久3年1863年2月吉村は藩から自費遊学許可得て京へ上る。ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件起き犯人として平田国学門人らが捕縛され3月吉村山縣小輔入江九一とともに学習院犯人赦免嘆願書提出している。 同月将軍徳川家茂上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる5月10日長州藩攘夷実行して関門海峡通過する外国船を砲撃した。この長州藩の攘夷決行参加した侍従中山忠光は、吉村の手引きで京都出奔している。6月、米仏艦隊来襲し、長州藩敗退した(下関戦争)。 この頃吉村松本奎堂真木保臣池内蔵太浪士とともに長州へ赴き、6月17日山口藩主毛利慶親世子・定広に謁見して、挙兵上京願っている。しかし、外国艦隊による報復攻撃受けていた長州藩ではその余裕はなく、長州藩としてはとりあえ家老指揮500程度の兵を上洛させるとの約束得た吉村らは久坂玄瑞高杉晋作らと連絡し諸方斡旋ののち、7月2日海路京都戻った

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