脱藩後の活動
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吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸で越後国の志士本間精一郎と合流した。上方には平野国臣、真木保臣、清河八郎、藤本鉄石ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であった。浪士の動きを知った久光は驚き鎮撫を命じ、4月23日、伏見の寺田屋において有馬新七ら過激尊攘派藩士の粛清を断行し、挙兵計画は失敗した(寺田屋騒動)。翌日、吉村と宮地も捕えられ薩摩藩邸に移送された。薩摩藩では挙兵計画に参加した他藩の脱藩者を出身藩に引き渡すこととし、30日に吉村らの身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還された。船中で吉村は挙兵の手始めは諸侯ではなく、浪士の任である旨の書取を残している。土佐で吉村は8ヶ月間、禁獄される。やがて政情が尊攘派に有利になり、諸藩で安政の大獄、寺田屋騒動の関係者などの赦免が行われるに伴い、間崎哲馬らの斡旋もあって同年12月に吉村も釈放された。 文久3年(1863年)2月、吉村は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。ちょうどこの時に京都では足利三代木像梟首事件が起き、犯人として平田国学門人らが捕縛され、3月に吉村は山縣小輔、入江九一とともに学習院に犯人の赦免嘆願書を提出している。 同月、将軍・徳川家茂が上洛し、朝廷から5月10日をもって攘夷決行をするよう約束させられる。5月10日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃した。この長州藩の攘夷決行に参加した侍従・中山忠光は、吉村の手引きで京都を出奔している。6月、米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退した(下関戦争)。 この頃、吉村は松本奎堂、真木保臣、池内蔵太ら浪士とともに長州へ赴き、6月17日に山口で藩主・毛利慶親、世子・定広に謁見して、挙兵上京を願っている。しかし、外国艦隊による報復攻撃を受けていた長州藩ではその余裕はなく、長州藩としてはとりあえず家老の指揮で500人程度の兵を上洛させるとの約束を得た。吉村らは久坂玄瑞や高杉晋作らと連絡し諸方を斡旋ののち、7月2日に海路京都へ戻った。
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