脱行動科学の動きとは? わかりやすく解説

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脱行動科学の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:20 UTC 版)

政治学史」の記事における「脱行動科学の動き」の解説

かくして政治学における主流派地位占めるに至った行動科学政治学だが、1960年代には様々な角度から批判されるうになる。さらに行動科学政治学でも、それらの批判をうけて脱行動科学方向模索し始めた。 既に1940年代50年代ら行科学政治学一線を画す研究行われていた。その代表的なもの一つは、後述する合理的選択理論である。さらにモーゲンソー社会科学ディシプリンとしての国際政治学確立目指す一方で行動科学の手法とは距離を置いた。『科学的人間権力政治』(Scientific Man versus Power Politics, 1946)において行動科学手法アクター間関係にはたらくパワー要素見落としがちであることを指摘し政治学はそうしたパワー要素捉えるべきだと論じたラズウェルカプラン共著経済と社会』(Power and Society, 1950)の書評では同じよう論点から、哲学的規範的視点軽視批判した。しかし行動科学政治学対するより端的で鋭い批判は、それとは異な観点から生じたシュトラウス筆頭とするシュトラウス派による批判と、いわゆるニュー・レフトからの批判である。 行動科学政治学基礎となるのは、価値事実峻別できるという考え方である。その上で客観的な事実だけを政治現象として取り出し帰納法による実証通じて政治現象科学的に把握説明できるというのが行科学政治学基本的立場である。この思想古くコント実証主義遡ることができ、新しくヴェーバー強く主張したものであったシュトラウスは、こうした行動科学政治学背景思想真っ向から異を唱え政治哲学復権強く主張したいわゆるニュー・レフトによる批判シュトラウスのそれとは些か異なる趣を持つ。すなわち、彼らの批判1960年代後半社会情勢起因するニュー・レフトははっきりと体制に対する不満を表明しさかんに社会運動繰り広げた。さらにベトナム戦争人々体制への疑問喚起することとなったその結果彼らの影響力政治学にも及び、体制変動もしくはよりよい社会」の建設のための政治学提起した。彼らにとって価値中立性を謳う行動科学政治学は、現実政治実証的分析の名の下に現体制擁護する死んだ政治学」にほかならなかった。実はこの種の論争は、既に1950年代政治学において見出すことが出来る。社会学者ミルズは、1956年に『パワー・エリート』(The Power Elite)を著したこの中でミルズ有名な政・軍・産複合体概念打ち出しアメリカの政治における決定はこれら一部エリート握られていると論じた。これは体制批判含意をもつものであった対して行動科学政治学代表する研究者であるダールは、『統治するのはだれか――アメリカの一都市における民主主義権力』(Who Governs?:Democracy and Power in the American City, 1961)において反論繰り広げたダールコネティカット州ニュー・ヘヴン市における実証研究通じて決定システム多元主義的であることを示したミルズ影響の下アメリカ政治多元性を疑うニュー・レフトにとってみれば、行動科学政治学知見欺瞞満ちておりそれは単なる体制擁護イデオロギーに過ぎなくなる。従って、ニュー・レフト観点からすれば行動科学政治学社会対す有意性すなわち体制変動貢献する要素持たない新し政治学求める者はこの点を強く批判し新政治学コーカス(The Caucus for a New Political Science, CNPS)を立ち上げたこうした批判受けて行動科学政治学側も「脱行動科学」を打ち出した行動科学政治学第一人者イーストン1969年行ったアメリカ政治学会会長演説がその契機といわれている。この中でイーストン有意性行為をキーワードに「脱行動科学革命」を提唱した。これは行動科学経験的保守主義イデオロギー隠している、つまり体制擁護的であることを認めたものであった。さらに行動科学政治学現実との接触失っていること、政治学が「よりよい社会」の実現資すべき事など、新し政治学求め一派主張一部取り入れたものでもある。一方でイーストン従来行動科学政治学成果否定したわけではない。彼は「脱行動科学革命」をむしろ行動科学政治学拡張捉えた行動科学手法維持したまま、1960年代後半見られたような社会的危機克服政治学資することが出来ると考えたのだ。 こうした脱行動科学の動きは、新し政治学あり方提示するのに必ずしも成功しなかった。CNPSにつながる政治学者たちは、参加民主制などの新し思潮生み出したが、新し政治学潮流築き得なかった。これはイーストンの「脱行動科学革命」も同様である。行動科学政治学政治過程論などの分野有力な地位にとどまる一方支配的な方法論ではなくなった。政治哲学復権合理的選択理論台頭など政治学方法論的な多様性支配的パラダイム不在という状況迎えることになったのである

※この「脱行動科学の動き」の解説は、「政治学史」の解説の一部です。
「脱行動科学の動き」を含む「政治学史」の記事については、「政治学史」の概要を参照ください。

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