脱藩と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:42 UTC 版)
土佐藩を脱藩した慎太郎は、同年9月、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となった。また、周防国三田尻に都落ちしていた三条実美の随臣(衛士)となり、長州はじめ各地の志士たちとの重要な連絡役となった。 元治元年(1864年)、石川清之助を名乗り上洛。薩摩藩の島津久光暗殺を画策したが果たせず、また、浪士部隊「忠勇隊」の一員として、禁門の変を長州側で戦い、負傷し、忠勇隊総督の真木和泉が自刃した後、和泉の弟・外記と共に総督を務めた。
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