山梔窩脱出後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:08 UTC 版)
薩摩藩に到着した真木保臣と門下生の淵上謙三,吉武助左衛門,真木菊四郎は薩摩藩島津久光一行に加わり,上京を試みるが討幕の意思を持たない薩摩藩から同行を拒否されたため別行動となり文久2年(1862年)4月21日,大坂(大阪)到着。 大坂には田中河内介のほか,各地の志士たち,薩摩藩の有馬新七ら尊攘討幕派が集い,討幕挙兵計画が進められていた。義挙に加わり京に向かうため,真木保臣,淵上謙三,吉武助左衛門,真木菊四郎ほか門下生鶴田陶司,酒井伝次郎,原道太,荒巻羊三郎,古賀簡二,中垣健太郎の計10名は4月23日,寺田屋に集結。寺田屋には島津久光が派遣した鎮撫使の奈良原喜八郎ら9名が到着し,会談に臨んだ有馬新七,柴山愛次郎,橋口壮介らを上意討ちとした。真木保臣一行は別棟にいたため,当初は幕使の襲撃と見たが,後に薩摩人同士の同士討ちであることを知る。奈良原喜八郎は残りの薩摩人に対し,島津久光は義挙に懐柔していることを伝え,共順を求めたが納得しないことから田中河内介を調停役とした。田中河内介は真木保臣に同席を求め,今後の計画を後日に期することとしその場を収める。 真木保臣は京都で待機していた久坂玄瑞に門下生を派遣し義挙失敗を報告。翌24日,真木保臣を訪ねてきた久坂玄瑞と会談,志士たちは自藩に戻ることとなる。真木保臣は再び幽囚となる。田中河内介,秋月藩の海賀宮門らは薩摩に向かう船中で薩摩藩により殺害され海に投棄,田中河内父子の遺体が小豆島に上がる。
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