山梨と果物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 04:51 UTC 版)
山梨県の県土に占める耕地面積の割合は5.9%にすぎないが、果樹栽培が盛んであるため土地生産性は3,217千円/ha(2001年)と日本全国的に見ても高い。また山梨県の農業生産額に占める果実の割合は58%(2003年)に達し、果物が山梨県の農業を支える基幹作物になっている。ただし1925年(大正14年)の農産物価格構成比をみると果実が占める割合は2.9%にすぎず、日本全体の平均値の2.0%と大差なく、当時の基幹農産物はイネとカイコであった。果物栽培が山梨県の農業の中核を担うようになるのは、日本住血吸虫対策や養蚕不況に伴う果樹への切り替えが起こる1960年代以降のことである。当時の交通網の整備によって京浜の市場との結びつきが強化されたことと日本国民の消費生活の向上が重なったことで果物需要が伸び、レジャーブーム到来による果樹園の観光農園化も手伝って、山梨県の果樹生産は大きく成長したのであった。 県は「フルーツ王国」を自称しており、ブドウ・モモ・スモモは栽培面積・生産量ともに日本一である。果物栽培が発達した背景として、釜無川・笛吹川・桂川に沿った細長い平地を除いて傾斜地が多く、800 mの標高差を伴う複雑な地形であること、降水量が少なく、日照時間が長く、昼夜の寒暖差が大きいという地形・気候条件が挙げられる。また四方を高い山々に囲まれているため季節風の影響を受けづらく、大気は乾燥がちである。土壌は沖積層・洪積層に覆われ、肥沃である。 奈良時代には既にクルミを献上したことが木簡に記され、平安時代の『延喜式』にナシが甲斐国の名産品であると書かれているように、果物栽培の長い歴史を持ちその種類も豊富で、献上品として珍重されてきた。ただし落葉果樹が中心で、柑橘類の栽培は行われなかった。 江戸時代になると、甲斐国の経済発展に果物が役立つと目されたことに加え、甲斐国が甲州街道の整備によって江戸の市場と結合したことから、商品作物として果物の栽培が盛んになった。甲州八珍果の中ではブドウ・ナシ・カキが江戸幕府への献上品として珍重された。こうした中で正徳(1711年 - 1716年)の検地でブドウへの課税方法がブドウの木単位からブドウ畑の反別に変化し、重要な課税対象と見なされたことが窺える。一方でナシへの課税は、江戸時代を通じてナシの木1本ごとに行われた。生の果実だけでなく、柿渋・ひめくるみ・ぶどうづけなどの加工品や、月の雫・源氏くるみなどの銘菓の生産も行われた。 山梨市の加納岩病院(現・加納岩総合病院)は、1971年(昭和46年)に果樹地帯ならではの産婦人科学的疾患について論文を発表している。同論文によれば、新たに開発されたジベレリン処理の作業が注意力・持続力が必要なことから女性の方がむいており、他の農作業にも男性労働力の不足で女性が従事するようになったと記されている。その結果、農家の女性は非農家の女性と比べて下肢静脈瘤を患う人が多く、農繁期に未熟児の出生率が高く、農薬を吸入することによる一次不妊が考えられるという。
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