山梔窩脱出の経緯とは? わかりやすく解説

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山梔窩脱出の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 00:08 UTC 版)

山梔窩」の記事における「山梔窩脱出の経緯」の解説

文久元年1861年10月15日,平野国臣山梔窩訪れ3回目),真木保臣に「薩摩藩頼り尊王攘夷の志を遂げたい」と語った後,12月6日には清河八郎訪れ,意気投合12月25日,平野国臣,伊牟田尚平,清河八郎瀬高(福岡県みやま市)に到着した際,真木保臣山梔窩抜け出して3人と会談,決起意思固めたとされる文久2年1862年2月1日,薩摩藩命による江戸行途中で薩摩藩柴山愛次郎,橋口壮介山梔窩訪ね,平野国臣同席した席上2月25日島津久光上京することを知らされるが,島津久光には討幕意思無く公武合体考え方とどまっていることを聞き失望2月4日,京から帰国途中大久保利通宿場羽犬塚福岡県筑後市)で淵上郁太郎淵上謙三姉婿であり,門下生でもある吉武左衛門邸で待ち受け協力求めたものの,この頃大久保利通島津久光側についており同意得られなかったことから2月16日,脱出に至る。 脱出直前文久2年1862年2月12日夜、真木外記真木保臣の妻睦と子小棹を三潴郡本村上野自宅招き真木保臣との決別をなさしめた。真木保臣は睦に「この度義挙蹉跌したら、その罪は一族に及ぶであろう汝等覚悟してうなった潔く自刃せよ」と伝え左文字吉光短刀各々与える。吉田丹波博文水野丹後の弟)を招き後事託した

※この「山梔窩脱出の経緯」の解説は、「山梔窩」の解説の一部です。
「山梔窩脱出の経緯」を含む「山梔窩」の記事については、「山梔窩」の概要を参照ください。

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