山梔窩脱出の経緯
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文久元年(1861年)10月15日,平野国臣が山梔窩を訪れ(3回目),真木保臣に「薩摩藩を頼り尊王攘夷の志を遂げたい」と語った後,12月6日には清河八郎が訪れ,意気投合。12月25日,平野国臣,伊牟田尚平,清河八郎が瀬高(福岡県みやま市)に到着した際,真木保臣は山梔窩を抜け出して3人と会談,決起の意思を固めたとされる。 文久2年(1862年)2月1日,薩摩藩命による江戸行の途中で薩摩藩士柴山愛次郎,橋口壮介が山梔窩を訪ね,平野国臣も同席した席上で2月25日に島津久光が上京することを知らされるが,島津久光には討幕の意思が無く公武合体の考え方にとどまっていることを聞き失望。2月4日,京から帰国途中の大久保利通を宿場羽犬塚(福岡県筑後市)で淵上郁太郎淵上謙三の姉婿であり,門下生でもある吉武助左衛門邸で待ち受け協力を求めたものの,この頃大久保利通は島津久光側についており同意は得られなかったことから2月16日,脱出に至る。 脱出直前の文久2年(1862年)2月12日夜、真木外記は真木保臣の妻睦と子小棹を三潴郡本村上野の自宅に招き真木保臣との決別をなさしめた。真木保臣は睦に「この度の義挙が蹉跌したら、その罪は一族に及ぶであろう。汝等も覚悟してそうなったら潔く自刃せよ」と伝え左文字・吉光の短刀を各々に与える。吉田丹波博文(水野丹後の弟)を招き後事を託した。
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