山梔窩建築
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嘉永5年(1852年)10月20日,大工茂七(筑後市尾島)と家の規模を決めた。 11月7日より木材搬入,翌年7月17日基礎工事,8月6日完成。なお、この日は12代将軍徳川家慶が死去したと水田に伝わった日でもある。 嘉永6年(1853年)8月6日、完成。 「山梔は口無しと訓ず。則ち取りて吾が庵に命ず」別名くちなしのやとは「藩政に口を出し蟄居を命じられたことに以後は何事にも口を出さない」との意が込められている。 蟄居については以下の詩を詠んでいる。 しずけさは軒端の松にはふつたのおもひもかけぬ住居なりけり 安政元年(1854年)2月15日、山梔窩塾を設立。
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