北信濃の俳人との交際
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶は俳諧師として活動を始めた比較的初期から、故郷、北信濃の俳人との交流を始めていた。享和元年(1801年)の父の死去以前、一茶は寛政3年(1791年)、寛政10年(1798年)の帰郷が確認されている。この時期に交際している俳人は、故郷柏原の中村平湖とその子の二竹、野尻の石田湖光、そして飯綱町赤塩毛野の滝沢可候らの名前が挙げられる。ともに柏原やその周辺に住み、また石田湖光・滝沢可候とも中村平湖の親族であり、平湖が一茶に紹介したものと考えられている。 中でも石田湖光、滝沢可候は、後に結成されていく一茶社中でも活躍していく。つまり北信濃における一茶の門弟の草分けとなる人たちであるが、まだこの時期に故郷に本格的な俳諧結社を組織するためのしっかりとした計画があったとは考えにくい。享和元年の帰郷は一茶社中結成に向けて動き始めるためであったとの説もあるが、北信濃に俳諧結社を組織するために本腰を入れ始めるのは、父の死後のことであった。
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