北信愛の活躍
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北信愛は、南部氏一門の長老として歴史に登場した。すでに八戸氏・九戸氏に続く勢力を有していたとみられる。元亀2年(1571年)から始まった屋裏の変では、南部信直を保護し南部晴政と争った。南部晴継死去後には強引な手段によって南部信直を26代惣領の座につかせた。このため信直の側近として重用され、外交・軍事で活躍した。 天正18年(1590年)、南部氏と秋田氏が比内郡を争った際、信愛の子・愛邦が戦死した。また信愛の弟・北弾正は、比内郡で南部側につき秋田氏に攻められていた五城目兵庫を救援に向かい、大館表の戦いで討死した。ただし弾正はいったん落ち延びて五城目領で自害したとも伝わり、自害した地には弾正と家臣12名(計13人)を祭る十三騎神社が建てられている。 天正19年(1591年)に九戸政実の乱が起こると、九戸方につき南部氏によって滅亡した一戸氏旧領を北一族は与えられ、九戸政実への押さえとなった。長男・彦助愛一(定愛)は剣吉城から移って寺田館を領し、次男・主馬尉秀愛(直愛)は一戸城を領した。秀愛は九戸方の一戸猛攻に耐え、その功で乱後に花巻城8000石を得ている。しかし秀愛は慶長3年(1598年)に死去、花巻城代は父・信愛が継いだ。ただし秀愛は一戸城の戦いで戦死したとも伝わるため、『一戸町誌 上』では秀愛の花巻領有を疑問視する。 慶長18年(1613年)、信愛が没すると花巻城代たる北氏は断絶、藩主南部利直の次男・政直が新たに2万石で花巻城に入った。ただし主命によって、信愛の五男(三男)で2000石を有していた愛継(直継)が、秀愛の名跡と信愛以来の北氏の祭祀を継承した。長男愛一が分家していたためとみられる。
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