俳諧寺一茶の刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
正岡子規の一茶評価と期を同じくして、一茶の故郷である長野県でも再評価の動きが始まっていた。明治26年(1893年)、一茶の故郷の柏原を訪れた俳人小平雪人が再評価の糸口を作った。その結果、一茶ゆかりの旧本陣中村六左衛門家の末裔である中村六郎らの手によって一茶の資料発掘が進められるようになった。明治35年(1902年)には一茶の顕彰を目的とする「玉声会」が発足し、更に中村六郎は明治41年(1908年)、「一茶同好会」を結成した。明治末期、一茶の著作として新たに「七番日記」、「父の終焉日記」が出版された。 明治40年(1907年)には一茶の菩提寺、明専寺で一茶翁追悼八十年法要が営まれ、これが「一茶忌」行事の先駆けとなり、明治43年(1910年)には当時の柏原駅長の呼びかけにより、故郷、柏原の人たちの手によって明専寺裏手の小丸山公園に一茶のことを偲ぶ、「一茶俤堂」という茅葺の小さなお堂が建てられた。一茶俤堂はいつしか一茶の庵号であった「俳諧寺」と呼ばれるようになり、地元の人たちの句会などに使用されるようになった。 明治33年(1900年)4月から9月にかけて、信濃毎日新聞紙上で「俳諧寺一茶」が連載された。著者は信濃毎日新聞の記者であり俳人でもあった束松露香であった。明治43年(1910年)には一茶同好会の手によって、新聞に連載された内容をもとに単行本「俳諧寺一茶」が刊行された。刊行には一茶同好会の代表者であった中村六郎の尽力が大きかった。 「俳諧寺一茶」は、内容的にやはり不正確な部分が多いとの批判もあるが、初の本格的な一茶研究の成果であり、世間に広く一茶の全貌を紹介したと一茶研究者の多くがその意義を高く評価している。露香が描いた一茶像は「笑いの中に涙を湛える飄逸なる詩人」であった。この人間像は一茶評価のひとつの典型として受け入れられていく。 「俳諧寺一茶」で紹介された一茶像の中で「笑いの中に涙を湛える飄逸なる詩人」以外で注目されるのが、国家主義者としての一茶である。一茶は日本びいきの俳人であり、日本賛美の句を作っていたが、束松露香はその部分に着目したのである。この国家主義者としての一茶像は明治後期の社会、政治情勢の影響を受けたものであると考えられ、明治末期、一茶が学校教育の中で初めて取り上げられるに際し、この国家主義者としての一茶像が大きく扱われることになった。
※この「俳諧寺一茶の刊行」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「俳諧寺一茶の刊行」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。
- 俳諧寺一茶の刊行のページへのリンク