俳諧の道に入る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
江戸に奉公に出た一茶は、やがて俳諧に出会う。一茶は芭蕉の友人、山口素堂を始祖とする俳諧グループ、葛飾派に所属することになる。葛飾派は芭蕉の句とは異なり通俗的な作句が特徴的であったが、芭蕉の作風を引き継いでいると自任しており、江戸の俳壇において名門意識を持っていた。 一茶の俳句で最も古いものは、天明7年(1787年)春に編纂された、信州佐久郡上海瀬(現・長野県南佐久郡佐久穂町)在住の新海米翁の米寿記念賀集、真砂古に渭浜庵執筆一茶として入集している 是からも未だ幾かへりまつの花 という、松にことよせて新海米翁の更なる長寿を願った句であるという説が有力である。 渭浜庵執筆一茶の意味であるが、渭浜庵は俳句の葛飾派宗匠であった溝口素丸の庵号である。素丸は本職は書院番を務めた旗本であり、本職の傍ら葛飾派の俳句を学び、やがて葛飾派の3代目宗匠となり、自派を「葛飾蕉門」と称し江戸俳壇でその勢力を伸ばした。執筆とは俳諧を行う際の書記のことであり、俳諧のルールや運営方法を理解していなければならず、俳諧の実力が高い人物が務める役割であった。また執筆は師匠の庵に同居して内弟子兼雑用を務めるのが通例であった。そのため俳諧師を目指す弟子の中でもその能力が認められた人物が選ばれており、25歳の一茶は葛飾派のリーダー素丸からその能力が認められていたことと、少なくとも天明7年の2~3年前には素丸に入門していたことが推測される。 真砂古が刊行された天明7年(1787年)春、葛飾派の重鎮、二六庵竹阿が約20年の大坂暮らしを終えて江戸へ戻ってきた。竹阿はしばしば西日本各地を巡っており、その中で関西との縁が深まって約20年間、大坂暮らしをするようになった。しかし竹阿と同じく関東の出身で親友であった石漱が関東に帰ることになり、その上、竹阿を大坂に誘った門人が死去したこともあって、江戸へ戻ることになった。竹阿は西日本各地に多くの門人がおり、後に一茶が俳諧修行のために西日本各地を行脚した際、竹阿の門人を尋ねて廻ることになる。一茶は天明7年(1787年)11月、二六庵で竹阿所蔵の「白砂人集」を書写している。なおこの時の名乗りは小林圯橋であり、一茶ではなかった。当時竹阿は78歳、一茶は素丸からの推薦もあって二六庵に住み込んで竹阿の内弟子となるとともに、高齢の竹阿の世話をするようになったと考えられる。後述のように竹阿の教えは一茶に大きな影響を与えており、一茶は寛政2年(1790年)3月13日、81歳で亡くなった竹阿の最期を看取ったと見られている。 素丸、竹阿の他に、駆け出し期の一茶はやはり葛飾派の重鎮、森田元夢に師事していた。天明期から寛政の初年にかけて、一茶は菊明という俳号も名乗っていたが、寛政元年(1789年)に発行された「はいかい柳の友」に、元夢の今日庵の執筆として今日庵菊明の句が掲載されている。しかし「はいかい柳の友」の別版では今日庵菊明の句は削除され、今日庵執筆として他の4名の句が掲載されており、何か問題が起きたと考えられている。一茶は元夢にその後も師事し続けるが、文化11年(1814年)、江戸から郷里、信濃の柏原へ帰る一茶が江戸の俳壇を引退することを記念して発行した「三韓人」において、素丸、竹阿は師として厚遇しているものの、元夢の作品は掲載していない。 また「三韓人」において一茶は、葛飾派重鎮の素丸、竹阿、元夢以外に、俳壇の重鎮であった白雄、蓼太に師事していたことを示唆している。白雄、蓼太ともに一茶よりも年齢が相当上で高名な俳人であったが、ともに一茶と同じ信濃の出身で、同郷の縁故があったためか、俳諧の道を歩み始めたばかりの一茶と何らかの関係があったものと推測されている。 俳諧で身を立てることを願った一茶は、万葉集、古今和歌集、後撰和歌集といった古典和歌や歌論などを猛勉強していた。中でも本歌取の技法を熱心に学び、例えば 清原元輔の ちぎりきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは を本歌として ちぎりきな藪入り茶屋を知らせ文 と、いわば古歌をパロディ化したような句をしばしば作っていた。 駆け出しのまだ無名時代の句の中では、寛政2年(1790年)、一茶28歳の時の作 三文が霞見にけり遠眼鏡 が、比較的よく知られている。三文払って遠眼鏡を借りてみたところが、霞しか見えなかったという句であり、一茶は後年まで金銭を句の中に読み込んだ作品が見られる。これは一茶の恵まれているとは言い難い境遇や、全てを金勘定するような都市での生活の中から生まれたとともに、現実をしっかりと見据えた上で句に生かしていくという一茶の句の特徴の一つが早くも現れていると評価できる。 なお、一茶という俳号であるが、一茶自身は自らの著作、「寛政三年紀行」の冒頭において 立つ淡の消えやすき物から、名を一茶坊といふ。 としており、また「三韓人」において一茶の親友ともいうべき夏目成美は、 しなのの国にひとりの隠士あり。はやくその心ざしありて、森羅万象を一椀の茶に放下し、みづから一茶と名乗り と、一茶のことを紹介している。このことから一茶とは、一椀の茶や泡沫のごとき人生を表す無常観に基づく命名であると考えられる。
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