俳諧師としての成功とは? わかりやすく解説

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俳諧師としての成功

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)

小林一茶」の記事における「俳諧師としての成功」の解説

一茶はまだ俳諧師として駆け出し時代寛政年間から、自筆句帳、句日記書き続けていた。文化7年1810年)からは「七番日記」という句日記付け始め文政元年1818年)まで書き続ける一茶七番日記から文政2年1819年執筆の「おらが春」に至る時期が最も充実した時期であるとされ、一茶独自の境地達した質、量ともに充実した、「一茶調」と呼ばれる多彩な作品生み出された。 この時期、ようやく一茶俳諧師として名声上がってきた。文化8年1811年)に大坂出され全国俳諧師番付では、一茶番付東方最上段に名前が載っており、江戸俳壇代表する俳人目されていた井上成美鈴木道彦らと肩を並べ高評価であった同時期に発行されその他の番付でも一茶評価おしなべて高かった当時葛飾派疎遠になりつつあった一茶は、夏目成美とともに特定の流派には所属せず、いわば独立勢力であった俳壇特定流派属しない一匹狼的な存在ではあったが、一茶実力文化中期になって広く知られるようになっていた。 この頃一茶俳諧に向かう心構え現した句に、文化8年1811年)作の 月花四十九年のむだ歩き がある。芭蕉劣化コピーとなっていた当時既成俳句世界生きてきたことを、「月花」囚われ49年間、むだ歩き続けてきたと自らを振り返った一茶俳句というものは一部隠者もてあそぶ高尚な言葉遊び世界であってはならず、誰もが日常の生活の中で生み出される喜怒哀楽を詠まねばならない主張したのである。またこの句は「四十九年」を「始終苦年」と掛けているという洒落も効かせ、深刻さばかりではなくおかしみ感じさせる作品仕上げている。 しかしいくら俳諧師として評価高まっても、一茶生活実態房総方面への俳諧行脚夏目成美らからの経済的援助頼りであることに変化無かった実際文化7年1810年11月夏目成美宅に逗留中に金が無くなるという事件が勃発し一茶成美使用人とともに数日間成美宅からの外出禁じられあれやこれやと調べられた。結局一茶お金を盗ったという証拠は全く見つからず無事に解放されたものの、一茶のことを高く評価し普段仲が良い俳人であった成美も、いざ金銭問題となると一茶使用人同様の扱いをする現実直面し根無し草のような生活からの脱却を更に強く願うようになった考えられる

※この「俳諧師としての成功」の解説は、「小林一茶」の解説の一部です。
「俳諧師としての成功」を含む「小林一茶」の記事については、「小林一茶」の概要を参照ください。

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