俳諧師としての成功
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一茶はまだ俳諧師として駆け出し時代の寛政年間から、自筆の句帳、句日記を書き続けていた。文化7年(1810年)からは「七番日記」という句日記を付け始め、文政元年(1818年)まで書き続ける。一茶は七番日記から文政2年(1819年)執筆の「おらが春」に至る時期が最も充実した時期であるとされ、一茶独自の境地に達した質、量ともに充実した、「一茶調」と呼ばれる多彩な作品が生み出された。 この時期、ようやく一茶の俳諧師としての名声が上がってきた。文化8年(1811年)に大坂で出された全国の俳諧師の番付では、一茶は番付東方最上段に名前が載っており、江戸俳壇を代表する俳人と目されていた井上成美、鈴木道彦らと肩を並べる高評価であった。同時期に発行されたその他の番付でも一茶の評価はおしなべて高かった。当時、葛飾派と疎遠になりつつあった一茶は、夏目成美らとともに特定の流派には所属せず、いわば独立勢力であった。俳壇の特定流派に属しない一匹狼的な存在ではあったが、一茶の実力は文化中期になって広く知られるようになっていた。 この頃の一茶の俳諧に向かう心構えを現した句に、文化8年(1811年)作の 月花や四十九年のむだ歩き がある。芭蕉の劣化コピーとなっていた当時の既成俳句の世界に生きてきたことを、「月花」に囚われ49年間、むだ歩きを続けてきたと自らを振り返った。一茶は俳句というものは一部の隠者がもてあそぶ高尚な言葉遊びの世界であってはならず、誰もが日常の生活の中で生み出される喜怒哀楽を詠まねばならないと主張したのである。またこの句は「四十九年」を「始終苦年」と掛けているという洒落も効かせ、深刻さばかりではなくおかしみを感じさせる作品に仕上げている。 しかしいくら俳諧師としての評価が高まっても、一茶の生活実態は房総方面への俳諧行脚や夏目成美らからの経済的援助が頼りであることに変化は無かった。実際、文化7年(1810年)11月、夏目成美宅に逗留中に金が無くなるという事件が勃発し、一茶は成美の使用人らとともに数日間成美宅からの外出を禁じられ、あれやこれやと調べられた。結局一茶がお金を盗ったという証拠は全く見つからず、無事に解放されたものの、一茶のことを高く評価し、普段は仲が良い俳人であった成美も、いざ金銭問題となると一茶を使用人同様の扱いをする現実に直面し、根無し草のような生活からの脱却を更に強く願うようになったと考えられる。
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