俳諧師として名を成す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:29 UTC 版)
明暦2年(1656年)、15歳で俳諧を志した。寛文2年(1662年)には俳諧の点者として立っていた。貞門の西村長愛子撰『遠近集』(1666年)に見える3句が現在残る西鶴句の初見で、その時の号は鶴永。俳諧は当初貞門派の流れを汲んだが、西山宗因に近づき、1670年代には談林派の句風となった。 延宝元年(1673年)春、大坂・生國魂神社の南坊で万句俳諧の興行をし、同年6月28日『生玉万句』として出版。この自序に「世こぞつて濁れり、我ひとり.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}清(すめ)り」「賤(やつがれ)も狂句をはけば、世人阿蘭陀流などさみして、かの万句の数にものぞかれぬ」「雀の千こゑ鶴の一声」と記し、自らの新風を強調した。その結果、談林俳諧師の先鋭とされ、「おらんだ西鶴」と称された。西山宗因の『蚊柱百句』に先立つこと1年、談林俳諧成立の記念碑的作品と見る見方もある[要出典]。また、その興行の出句者を見ると宗因の影が濃く、既に師・宗因と出会っていた可能性が高い[要出典]。西鶴号が、翌年正月の『歳旦発句集』に初めて見える。 延宝3年(1675年)、34歳の時に妻を亡くし1000句の追善興行、『誹諧独吟一日千句』(同年4月8日自序)と題して出版する。大坂俳壇の重鎮の多くを含む105名の俳諧師の追善句も載せる。同年に剃髪し、法体になっている。 延宝5年(1677年)3月、大坂の生國魂神社で一昼夜1600句独吟興行し、5月にそれを『俳諧大句数』と題して刊行。序文にて「今又俳諧の大句数初て、我口拍子にまかせ」と矢数俳諧(cf.通し矢)の創始を主張し「其日数百人の連衆耳をつぶして」と自慢気に語ったが、同年9月に月松軒紀子が1,800句の独吟興行で西鶴の記録を抜く[要出典]。翌年、月松軒の独吟が『俳諧大矢数千八百韵』と題して刊行され、点を加えた菅野谷高政が序で西鶴を皮肉るような物言いをする[要出典]。延宝7年(1679年)、大淀三千風が独吟3,000句を達成し『仙台大矢数』として出版、その跋文に西鶴は「紀子千八百はいざ白波の跡かたもなき事ぞかし」「其上かゝる大分の物、執筆もなく判者もなし、誠に不都合の達者だて」と紀子の一昼夜独吟に疑いをかけ「中々高政などの口拍子にては、大俳諧は及ぶ事にてあらず」と返す刀で高政をも切る[要出典]。延宝8年5月7日(1680年6月3日)に生國魂神社内で4,000句独吟を成就、翌年4月に『西鶴大矢数』と題して刊行した。貞享元年(1684年)には摂津住吉の社前で一昼夜23,500句の独吟、以後時に二万翁と自称。1684年刊行『俳諧女哥仙』以降は俳書の刊行は休止状態となる。
※この「俳諧師として名を成す」の解説は、「井原西鶴」の解説の一部です。
「俳諧師として名を成す」を含む「井原西鶴」の記事については、「井原西鶴」の概要を参照ください。
- 俳諧師として名を成すのページへのリンク