15歳で江戸奉公へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶の故郷である柏原では、農家の子弟が江戸に奉公に出ること自体は珍しいことではなかった。しかしその多くは経済的に貧しい家庭の子弟であり、一茶のような中の上クラスの農民の、しかも長男が江戸に奉公に出ることは異例なことであった。もちろんその原因は継母との不仲であり、結果として一茶は継母のことを憎むようになった。江戸に奉公へ出ざるを得なくなった経緯は一茶の性格、そして句作に影響をもたらすことになる。 一茶は安永6年(1777年)の春に故郷柏原を離れ、江戸へ奉公へ出た。一茶を奉公に出すことを決めた父、弥五兵衛とすれば、一茶と継母もいったん距離を置くことによって関係が改善するのではないかとの思いがあった。一茶は江戸へ向かう柏原の村人に連れられて江戸へ出発した。父、弥五兵衛は一茶を隣の牟礼宿まで見送った。後に一茶は父から「毒なものは食うなよ、人に悪く思われるな、早く帰って元気な顔を見せておくれよ」。と言われて別れたと追想している。まだ15歳で長男でもある一茶を江戸に奉公に出したことは、父にとっては負い目となった。 江戸へ奉公に出た一茶の消息は、10年後の天明7年(1787年)までぷっつりと途絶える。奉公先についてはいくつかの言い伝えはあるものの、どれも確証はない。晩年の回想によれば江戸奉公は厳しい日々が続き、奉公先は一か所ではなく転々としており、住まいも安定しなかった。当時、信濃から江戸へは多くの労働者が働きに出ていた。労働者たちの多くはきつい肉体労働に従事し、ひとたび不況となると職を失い、住居のない無宿人同様の境遇になる者も少なくなかった。一茶もまた江戸奉公時代、住居が安定しないということは無宿人に近い境遇になった可能性もある。そして江戸の住民たちの多くは信濃からの労働者たちを蔑み、ムクドリと揶揄した。 椋鳥と人に呼ばるる寒さかな 後年一茶は、信濃者である一茶が江戸でムクドリと揶揄され、なおさら寒さが身に沁みると、江戸での労働者生活の辛さを句にした。 一茶の江戸奉公時代の確たる消息は皆無に近い。ただ文化3年(1806年)、一茶は房総半島行脚の帰途、浦賀の専福寺に立ち寄って香誉夏月寿信女という女性の墓参りに訪れている。一茶は香誉夏月寿信女が亡くなったのは天明2年6月2日(1782年7月11日)と記している。天明2年は一茶20歳の時であり、一茶とどのような関係にあったのかは不明であるが、一茶の江戸奉公の時期、この香誉夏月寿信女と何らかの縁があったことは確かである。
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