最終解決へ向けて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
一茶は文化7年(1810年)、正月早々に家探しをした。結局、柳橋に借家を見つけ、そこにとりあえず落ち着いた。この頃の一茶は北信濃の俳句愛好者のもとの盛んに手紙を出しており、江戸に居ながらにして郷里での俳諧結社の組織化に余念が無かった。3月には夏目成美らとともに一茶が撰者となった俳額が、日滝(須坂市)の蓮生寺に掲げられた。こうして一茶の故郷北信濃での知名度も上がってきた。 文化7年も一茶は5月に帰省している。しかし北信濃では基本的に門人宅を回り、19日に墓参、名主中村嘉左衛門利貞宅への挨拶を済ませた後に実家に行ってみたところが、一茶に白湯一杯すら出そうとしない冷たい態度であったため、そそくさと実家を後にした。結局、 古郷やよるもさはるも茨(ばら)の花 と、実家近くの旅籠小升屋に泊まらざるを得なかった。これでは遺産問題の交渉など全く進展があろうはずも無く、柏原を後にしてからも北信濃各地の門人宅を回り、6月初めには江戸へと戻った。 一茶は帰郷に向けて難航する実家の継母、弟との交渉、そして北信濃での一茶社中の組織作り以外にも努力を重ねていた。前述のように一茶の故郷、柏原宿は宿場の存亡を賭けた訴訟の真っただ中であった。しかも問題の訴訟は文化5年(1808年)3月にいったん事実上敗訴の判決があり、その後、再審中であった。柏原としてはこれまで以上に訴訟対策に全力投球せざるを得なかった。柏原宿の江戸での訴訟対策の総責任者は、本陣中村六左衛門利賓の兄、四郎兵衛であった。一茶はその四郎兵衛に接近する。 江戸暮らしが長く、また俳諧師として文化面にも精通していた一茶は、訴訟の合間を見て文化8年(1811年)3月、四郎兵衛を植木屋見物に案内する。そして5月にも四郎兵衛と一茶は連れ立って開帳のお参りに出かけている。一方、文化8年には訴訟の関係者と考えられる野尻宿、牟礼宿の関係者も一茶を訪ねている。一茶は江戸在住の北信濃出身者の中でも、名士となりつつあった。 そして遺産問題の経過の中で、一茶の後見人としてサポートするようになったのが、母方のいとこの徳左衛門であった。徳左衛門の宮沢家は仁之倉で一、二を争う有力者であったが、柏原の新田であった仁之倉は本村の柏原と仲が悪かった。仁之倉の有力者、徳左衛門にとってみれば、親族の一茶が柏原で疎外されているのを見て、もともと持っていた柏原に対する反感を刺激させ、遺産問題では一茶に肩入れして後見人の役割を果たすようになったと考えられている。 文化9年(1812年)、一茶は6月と12月の二度、故郷の柏原に向かった。6月の帰省では北信濃でやはり門人宅を精力的に回るとともに、柏原でも主に本陣の中村六左衛門家に宿をとり、本陣が業務多忙の際には旅籠の小升屋、そして仁之倉の徳左衛門宅に宿をとった。この頃には北信濃における一茶社中の体制も整ってきた。そして一茶社中の組織作りとともに、柏原の本陣、小升屋に宿泊しながら、遺産問題の最終解決に向けて奔走したと考えられる。 一方で一茶は柏原の有力者への働きかけを更に進めた。文化9年6月の帰省時、一茶は本陣に8泊している。前述のように本陣の主、中村六左衛門利賓の兄、四郎兵衛は柏原宿にとって極めて大切な訴訟の、江戸における最高責任者である。本陣に泊まった一茶は、中村六左衛門利賓に江戸の訴訟についての情報などを報告している。8月には一茶は江戸に戻るが、江戸では四郎兵衛が公事宿で病に倒れていた。一茶は早速四郎兵衛の看病に当たり、柏原にも四郎兵衛の病気について連絡したものと考えられる。すると8月末には兄の病状を心配した中村六左衛門利賓が、柏原の有力者の一人であった顔役の銀蔵とともに四郎兵衛の見舞いに駆け付けた。幸い四郎兵衛は回復し、大詰めを迎えていた訴訟の陣頭指揮に復帰した。このように一茶は柏原の有力者たち相手に着々と得点を稼いでいた。 一茶社中の体制が整い、柏原の有力者たちのコネクションも出来た、更には仁之倉のいとこ徳左衛門のサポートも期待できる。文化9年11月17日(1812年12月20日)、一茶は今度こそ帰郷するとの固い決意を胸に秘め、満を持して江戸を発ち、故郷柏原へと向かった。
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