遺産問題の最終解決
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一茶は文化9年11月24日(1812年12月27日)、柏原に戻った。柏原は既に冬、ふるさとは雪に埋もれていた。一茶は永住する覚悟を決めた雪に埋もれた故郷を これがまあつひの栖(すみか)か雪五尺 と詠んだ。 一茶は柏原に落ち着くことは無く、北信濃の門人宅を精力的に回り、結局12月24日(1813年1月26日)になって柏原の岡右衛門所有の借家を借りた。なお、一茶の帰郷の決意を見た北信濃の門人からは、布団などの生活用具が贈られた。借家で正月を迎えた一茶は、新年も門人宅巡りを行っていたが、1月19日(1813年2月19日)には父、弥五兵衛の十三回忌の法事に参列した。そして一茶は弟との間の遺産問題について、最終決着を図るべく交渉に臨んだ。 文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」を取り交わした後、遺産問題で最大の争点となったのが、享和元年(1801年)の父の死去後、一茶が取得すべき利益を弟、仙六が手に入れていたとする一茶側のクレームであった。一茶側の言い分としては、享和元年(1801年)から「取極一札之事」が取り交わされる前年の文化4年(1807年)までの7年間、本来ならば一茶に引き渡されなければならなかったはずの田畑から仙六は収穫を挙げていたわけで、まずはその分の利益を引き渡すべきと主張した。更に享和元年(1801年)から文化10年(1813年)に至る間、均等に分割することになっていた居宅も、弟、仙六が専有したままであるとして、その間の家賃分の支払いも要求したのである。一茶側の要求金額は合計30両であった。 一茶がいつこの要求を弟の仙六側に伝えたかについてははっきりしていない。まず文化5年(1808年)11月の「取極一札之事」取り交わしの直後から要求していたという説がある。この説によれば「取極一札之事」取り交わし後もなかなか遺産問題が決着せず、最終解決まで時間がかかってしまった事実を説明しやすい。しかしこの一茶側の遺失分利益の引き渡し要求が記録に現れるのは文化10年(1813年)1月の交渉時であり、そのため記録通り文化10年(1813年)1月の交渉時に一茶側が持ち出した条件であるとの説もある。 また、一茶側でこのような要求を持ち出すに至ったのには、一茶のいとこである仁之倉の徳左衛門の差し金があったと考えられている。徳左衛門はこの問題では一茶側に立って動いていた上に、この問題が決着した後、仙六から支払われた11両2分は徳左衛門が預かり、必要に応じて引き出すようになったことからも、やはり黒幕は徳左衛門であると見られている。 1月26日(1813年2月26日)、一茶は問題が解決しなければ翌日には江戸へ向かい、訴えるとの最後通牒を出した。結局、一茶と仙六の菩提寺である明専寺の住職が調停に乗り出した。最終的に一茶の言い分はもっともと認めた上で、30両の支払いでは仙六の家計が成り立たなくなってしまうため、立会人となった柏原の顔役である銀蔵らが詫びを入れる形で、一茶の要求額の半値以下の11両2分支払いで決着することとなり、26日中に「熟談書附之事」が取り交わされた。署名捺印は弥太郎(一茶)、一茶側の徳左衛門、弟弥兵衛(仙六)、弟側の小林本家の弥市、そして立会人の銀蔵の5名が行った。なお、この決着には一茶と親しくなった本陣の中村六左衛門利賓、四郎兵衛兄弟の意向も関与していると考えられる。 一茶が遺失分利益の引き渡しを要求し、減額されたとはいえ11両2分の金を弟から得たことについては、いわばごね得で11両2分を弟からむしり取ったとして、一茶の強欲さ、底意地の悪さを示し、弟は犠牲者であるとの評価が一般的である。一方、享和元年(1801年)の父の死去後、一茶と弟仙六は口約束であるとはいえ遺産の均分相続で合意しており、実際問題、一茶に引き渡されるべき田畑で弟は収穫を挙げ続け、また家屋敷も占有していたわけで、その分の金銭的要求を行うこと自体、不合理なことではなく、また、弟が一茶の不在時に一茶分の田畑や家屋の管理を担い続けてきたことを考慮すると、30両の一茶の要求金額を大幅に減額して和解した「熟談書附之事」の決定内容は、比較的妥当な結論と言えるのではないかとの意見もある。 一茶が弟から得た11両2分は、前述のように後見人に当たるいとこの徳左衛門が全額預かった。徳左衛門は一茶から預かったお金を年利1割2分5厘で貸し付けるという資産運用を行い、一茶は必要に応じて引き出している。そして文化11年2月21日(1814年4月11日)、待望の家屋分割が徳左衛門と銀蔵立ち合いのもと実施された。家屋敷を弟と二分して、半分を一茶が手に入れたのである。なお家屋分割時、一茶は弟仙六に3分の金を支払った上で、土蔵と仏壇を入手した。後に一茶がその生涯を閉じることになる土蔵は、この時一茶所有となった。
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