最終行動の模索
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1970年(昭和45年)正月、山本舜勝1佐や楯の会会員たちが集まった三島邸での新年会で、民間防衛の話に及んだ際、三島が何気なく、「自衛隊に刃を向けることもあり得るでしょうね」と発した。この新年会で楯の会の歌の歌詞コピーが配布された。 1月、中曽根康弘防衛庁長官が記者会見で、「楯の会は宝塚の兵隊である」と発言したことに三島が怒りを表明し、中曽根から三島宅へ直接釈明の電話があった。1月25日、近鉄大飯店白金苑で1月例会が行われ、28日の定例の空手稽古と「サロン・ド・クレール」での会合の後に、楯の会の歌の歌唱練習が行われた。 1月末、三島は前年暮に訪韓した際に世話になった韓国陸軍の元少将Rと山本1佐とを自宅に招いて会食した。Rの辞去後、三島が山本1佐に、「(クーデターを)やりますか!」と問うが、山本1佐は、「やるなら私を斬ってからにして下さい」と返答した。この頃三島は、山本1佐が「硬骨」と評価している自衛隊将校と接触していた。 この頃、木村俊夫官房副長官を通じ、佐藤栄作首相から楯の会に毎月100万円の支援をしたいという申し出があった。いまさらの資金援助申し出に三島は当惑し、戦後体制維持(護憲)の政府からの援助は受けられない立場でもあったので、三島は断った。 2月11日、麻布十番のアオイスタジオで、「起て! 紅の若き獅子たち」(楯の会の歌)のレコーディングが行われた。27名の隊員が歌唱し、数名のプロ歌手も加わった。この録音の模様をアメリカのNBC放送が取材した。 3月1日から28日まで、第5回の体験入隊が陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で行われた。この頃から、森田必勝と三島は決起計画を話し合うようになるが、まだ具体策はなかった。この第5回体験入隊で、古屋明(東京外語大学)、篠原学、村田春樹の「尚史会」、福田敏夫(国士舘大学)、金子修一(国士舘大学工学部)、塙徹二(國學院大學)などが5期生となった。 3月8日から14日まで行われた上級者のリフレッシャーコースは、約30数名が参加し、積雪の富士のすそ野を食糧支給なしで、一昼夜不眠不休で行軍するレンジャー訓練だった。行軍の最後に生米と生きたニワトリを渡され、それをさばいて食べ訓練終了となった。 3月末、三島は和服姿で錦袋に入れた日本刀を携え、突然と山本1佐宅を訪問した。三島はその刀を山本1佐に提供して決意を促すつもりのようだったため、山本1佐はあえてその日本刀の話題に触れなかった。帰り際に三島は、「山本1佐は冷たいですな」と言い、「やるなら制服のうちに頼みますよ」と山本1佐は返した。 4月3日、三島は千代田区の帝国ホテルのコーヒーショップにおいて小賀正義(第5班班長)に、4月10日には、自宅に招いた小川正洋(第7班班長)に、「最終行動」に参加する意志があるかどうか打診し、小川も小賀も沈思黙考の末に承諾した。この少し前、森田は最終行動に加えるメンバーを同居している田中健一(3期生)にしようかと模索していた形跡もある。 4月下旬、9年前から購読していた『蓮田善明とその死』(小高根二郎著)の刊行本を携え山本1佐宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈し、山本1佐に自分の心情を伝えた。 5月6日、三島は「憲法改正草案研究会」のための資料『問題提起』の第1回「新憲法における『日本』の欠落」を会員に配布した。 5月中旬、三島宅に森田必勝、小賀正義、小川正洋が集まり、自衛隊と楯の会が共に武装蜂起して国会に入り、憲法改正を訴えるという「最良の方法」を討議するが、具体的な方法はまだ模索中であった。 6月2日から4日まで、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、上級者のリフレッシャーコースが行われた。この回も食糧を支給されず不眠不休で青木ヶ原樹海を行軍する過酷な訓練だった。実弾射撃だけでなく、爆弾訓練も行われた。 6月11日、三島は「尚史会」の戸塚蛟龍塾に招かれ、『「孤立」のススメ』という講演(座談)を行い、吉田松陰の精神を語った。この講演は同塾の阿部勉(1期生)が文字起こしをして機関誌『青雲』に掲載された。
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