米国留学しレスリングで五輪へとは? わかりやすく解説

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米国留学しレスリングで五輪へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:10 UTC 版)

内藤克俊」の記事における「米国留学しレスリングで五輪へ」の解説

開拓精神抱き米国ペンシルベニア州立大学留学農学カレッジとして出発した同学建学以来工学部地球鉱物科学部と共に同学学術活動引張って来た農学部入学し園芸学専攻した内藤はそこで柔道似たレスリング発見大学レスリング部キャプテンとなると全米学生チャンピオンにもなり「タイガー内藤」と異名をとった。排日運動激しくなったこの時代日本人アメリカ大学スポーツ部のキャプテン就任したのも、内藤人望あったからこそといわれるが、在学当時学長宅に寄宿させてもらっていた事も、これを裏付けている。排日移民法施行した1924年米国代表として国際試合出場する事が不可となったため、学長は、駐米日大使日本代表として出場させるよう進言。これを受け、駐米大使推薦パリオリンピック日本代表となった内藤は、陸上競泳などの日本選手団とは別に1人アメリカ選手団一緒にニューヨークからパリ大会会場向う米国社会日本人移民増加封じるための排日移民法制定を望む世論高まりで、外務省進言に基づき日本政府日米間の摩擦和らげるべく、留学生内藤を「日本代表選手」として派遣してその懸け橋担えないかという高度な政治的理由をもって内藤日本選手団加えたともいわれるレスリング近代オリンピック第1回大会ら行われていたが、日本では柔道亜流考えられ軽視されていた。このため当時日本ではレスリング行われていなかった。欧州滞在中の柔道家介添えについたとはいえたった一人未知舞台挑むが、パリへ向かう船内練習で手の指を痛め思うよう動けなかった。フリースタイルフェザー級3回戦で、米国大会で負けたことの無かったロビン・リードRobin Reed)に判定敗れた試合後、リードから「僕がファイトして必ずチャンピオンになり、君が2位3位になるチャンスをつくる」と声を掛けられた。当時優勝者負けた選手2位3位を争うルールで、その約束通りリード金メダルを獲り、内藤敗者復活戦3位決定戦に勝ち、日本レスリング初参加で初のメダル(銅メダル)を獲得歴史的な快挙達成した介添え役は「余は唯衷心より嬉しさ餘り涙が頬を傳つた…終始正々堂々たる態度は實に日本青年意氣と體力と人格とを表現する充分であつた」と書き残した内藤レスリングにおける日本活躍見通しについて「オリムピツクみやげ」という本に柔道レスリングの差を充分に研究し、更にグレコローマン型と自由型區別十分に研究して柔道家始め多くの人が是を行ひ、次回アムステルダム大會にはフルチーム(七人)を出すやうにすれば大に勝算あると思ひます。殊にキャッチ・アズ・キャッチ・キャンは、グレコ・ローマン比し日本柔道家には特に適當かと存じます」(原文ママ)などと記し大日本体育協会パリ大会報告書の中でレスリング競技詳細紹介した上で、「堅忍不抜稽古振り従順潔白な彼等の『スポーツマンスピリット』は大い吾人の學ぶべき點であらうと信ずる」(原文ママ)などとより幅広い視点からのスポーツ論を展開し先駆者ならではの見識見せた。 この大会日本選手参加陸上水泳テニス内藤レスリング、全23人で、うち唯一のメダル獲得となり、前回1920年アントワープオリンピックのテニス・シングルスとダブルス獲得した銀2個に次ぎ3個目のメダルとなった日本初銀メダルは、アントワープ熊谷一弥第1号で、日本初銅メダルこの内となる。また金メダル第1号4年後、1928年アムステルダムオリンピック織田幹雄のため、オリンピックでの日本金メダル銅メダル獲得第1号広島出身者となる。 内藤銅メダル聞いた柔道相撲等の格闘種目関係者瞠目した。特に講道館では、内藤柔道三段である事を聞き柔道三段なら、五段であれば金メダルは確実である」「レスリングは、柔道亜流である」という考え方流布し、そのためレスリング柔道決別するまでに時間かかったといわれる内藤五輪後、一旦は帰国し早稲田大学専門部出身柔道家石黒敬七意気投合東京都文京区講道館にて、日本初めてのレスリング講習会を催す。レスリング柔道界に新風巻き起こし陸軍戸山学校からも指導委嘱された。しかしこれらの胎動は実を結ぶことなく母校鹿児島大学レスリング部創設する機会にも恵まれなかった。同年のうちに当時日本植民地だった台湾渡り製糖会社就職。ここでレスリングとの縁を切ってしまう。内藤講道館蒔いたレスリングの種は、その後も細かいながらも命脈保ち1928年アムステルダムオリンピックには、ライト級新免伊助出場したが、レスリング練習をしたのは大会直前英国でわずか15日間というにわか仕込みで、一回戦判定負け喫し早々姿を消した所詮は「裸柔道」という感覚でしかレスリング捉えていなかったのである日本オリンピック委員会(JOC)〜日本体育協会の中では毅然と日本スポーツ界創世記オリンピックメダリストとして栄光の人である。石井千秋講道館機関誌柔道1998年4月号で、この内が「日本レスリング生みの親といわれていた」と述べている。同様に日本レスリング始祖」だとする見方もあるが、一方で内藤偉業が、日本レスリング協会という組織誕生する8年も前のことであるためで、偉人とはいっても、協会とは関係のない人だと考えている人もいる。日本で、まだレスリングをやってない時代メダルを獲って、日本レスリング普及させることなくブラジル行ってしまったため、日本レスリング発展には、内藤はほとんど関与していない。日本国内レスリングは、1929年早稲田大学柔道部米国へ遠征しメンバー1人であった八田一朗帰国後の1931年大学レスリング部作ったことを始まりとする。以降日本レスリングオリンピック金メダルを計20個を獲るなど、世界に名を轟かせていった

※この「米国留学しレスリングで五輪へ」の解説は、「内藤克俊」の解説の一部です。
「米国留学しレスリングで五輪へ」を含む「内藤克俊」の記事については、「内藤克俊」の概要を参照ください。

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