江戸参府道中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/15 04:08 UTC 版)
長崎から下関までは、当初は海路だったが、船旅の危険を避けるため、万治2年からは陸路を主とした。それぞれの旅路を 長崎 - 下関 ⇒ 「短陸路 (Kort landweg) 」 下関 - 室(むろ)、または兵庫 ⇒ 「水路 (Water reis)」 大坂・京都 - 江戸 ⇒ 「大陸路(Lang landweg)」(東海道を利用) と称した。 途中宿泊する宿は、休憩か一泊するために利用するもので、大名の参勤交代に準じて各宿場の本陣や脇本陣が使用された。それらとは別に、江戸・京都・大坂・下関・小倉の5都市では往路・復路ともに数日間の宿泊を許されており、それらは阿蘭陀宿と呼ばれた。 江戸 長崎屋源右衛門 京都 海老屋 大坂 長崎屋 下関 大町年寄・佐甲家、同伊藤家 小倉 大坂屋 江戸の阿蘭陀宿・長崎屋ではカピタン一行の逗留中は普請役の役人や町奉行所の同心が日夜詰めて厳重に監視し、オランダ人との接触も役人たちとの立ち合いのもとで行われた。一行に随行・警固する検使は、全てにわたってカピタンたちに指示を出す立場であったが、その検使も江戸では普請役からの指図を受け、前例の無い事柄には勘定所からの指示を受ける必要があった。 京都の海老屋は、建物がさほど大きくないため、一行を周辺の寺院や旅籠に分宿させるために毎度奔走するのだが、それとは別にオランダ人やオランダ通詞の不取締りで迷惑を蒙っていた。江戸や大坂の阿蘭陀宿のように役人の目が無いためか、カピタンたちは芸者や遊女を呼んで羽目を外すことが多かったという。 大坂では、銅座と本陣を兼ねる長崎屋を定宿とし、往路に内納しておいた贈り物を、復路で大坂に逗留する際に「本目録」をもって大坂城代と東西の大坂町奉行に差し出し、饗応を受け、使者による下され物を受けとるのが通例だった。また、日本側の主要な輸出品の1つである銅(棹銅)を造る住友(泉屋)銅吹所を見物することが慣例となっていた。その後に住友の主人から饗応されるが、この時には大勢の見物人が泉屋を取り囲み、泉屋はこれら見物人に炊き出しをふるまったという。銅吹所見物は、宝永6年(1709年)から慶応3年(1867年)の間に合計46回行なわれている。 下関では、当地の大町年寄を務める伊藤家と佐甲家が、交代で阿蘭陀宿の業務を務めた。両家とも蘭癖で有名で、一行を西洋風の趣向をもって歓待し、収集した西洋の品々を披露し、滞在したカピタンからオランダ雅名を貰った人物もいた。下関での滞在中、カピタンたちは神社仏閣の見物も行なった。 長崎街道の終点である小倉の阿蘭陀宿・大坂屋では、カピタンは出島の留守役に手紙を出して道中の経過を報告をした。 長崎手前の矢上で通詞たち出迎えの人びとに迎えられ、出島に到着すると、検使の出役を得て、荷物は出島へ搬入される。進物や反物の残品などがあった場合も、改めのうえ蔵へ入れられる。拝領の時服・夜具・手廻品・食事道具・日用品なども当日のうちに改められ、オランダ人に引き渡される。カピタンは長崎奉行所へ帰着御礼に出頭し、会計上の決算が済めば、江戸参府の全てが終了となる。なお、江戸を出立する際に旅費が不足した場合は江戸の長崎屋が営む人参座に借用を願い出て、許可を得て金を拝借し、長崎に帰着した後に長崎会所でその金額を返納するという規定になっている。
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