電気鉄道の建設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 01:03 UTC 版)
「日立鉱山専用電気鉄道」の記事における「電気鉄道の建設」の解説
1905年(明治38年)12月に久原房之助によって買収された赤沢銅山は同月には日立鉱山と改名され、1907年(明治40年)頃から急速に発展するようになった。当初、鉱山の中心部である本山地区に採鉱から精練までの鉱山関連施設がまとまっていたが、本山地区は宮田川の最上流部の狭い谷間であり、久原は本山と常磐線助川駅の間にあって谷間が広がっている大雄院の地に目をつけ、精錬所を建設する構想を抱くようになった。 久原の構想は広い土地を得られる場所に精錬所を設けることにとどまらなかった。一つの鉱山から産出される鉱石のみで鉱山経営を行った場合、鉱石枯渇や品位の低下などという事態が発生すれば経営が成り立たなくなるため、日立鉱山のみならず他の鉱山からの鉱石を購入して精練を行う、「買鉱」を積極的に行うことをもくろんだ。また関東地方にあって常磐線の助川駅から数キロという日立鉱山の恵まれた立地条件は、買鉱を進めるにあたって大きなプラスとなった。1908年(明治41年)3月には大雄院精錬所が起工され、11月には稼動を開始した。 大雄院は鉱山の中心部である本山と助川駅の間にあるため、精錬所の建設と並行して久原は輸送手段の強化に乗り出した。他の鉱山からの買鉱を積極的に進め、大雄院の精錬所で精練を行うために、物資の輸送手段として電気鉄道の建設が計画され、1908年(明治41年)5月に建設の出願がなされ、8月に建設の認可が下りると、早くも10月には試運転が行われ、そして11月26日に運行を開始することになった。 鉄道の建設認可から試運転まで約2ヶ月で完成したというのは、相当なスピードで建設が行われたと考えられるが、電気鉄道建設前に既に牛が牽引する軌道があり、改めて線路を敷設する工事は行われなかったとの説もある。電気鉄道の建設は、後に日立製作所を創業することになる小平浪平が指揮したと考えられており、電気機関車はアメリカ製のものを4台買い入れ、営業を開始することになった。
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