京阪電気鉄道の阪和間参入
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「阪和電気鉄道」の記事における「京阪電気鉄道の阪和間参入」の解説
京阪電気鉄道は大正 - 昭和初期にかけ、岡崎邦輔(第3代)・太田光凞(第4代)と2人の社長の下で、有力政党・立憲政友会との関係をバックに大幅な拡張政策を採り、近畿一円に一大電力コンツェルンを形成した。その一環として和歌山進出を目論み、1922年には和歌山県内の有力電力会社であった和歌山水力電気を買収して自社の和歌山支店とした。そしてこの延長線上で、従来南海鉄道南海本線のみが通じていた大阪 - 和歌山間でこれに平行する新しい高速電気鉄道の建設計画に資本参加したのである。 この電鉄路線計画は、元々和歌山以南の紀伊半島沿岸を自社航路の勢力範囲とし、来るべき将来における国鉄紀勢線の全通で打撃を受ける大阪商船、南海鉄道だけでは地元の将来的な潜在貨物輸送需要を賄いきれないと判断した泉州地域の綿業資本家、大阪方面における安定的な電力消費先を欲していた大手電力会社の宇治川電気(後の関西電力)、それに和歌山の有力者達が合同して立案したものであり、最初の出願は1919年に行われている。 京阪の正式な参加は、建設計画が本格的に具体化し、会社が設立された1926年4月24日以後のことであった。もっとも、1920年の原内閣による南海鉄道国有化失敗後、この案件に仲介役として介入していた京阪は阪和電鉄の出願者グループと緊密な関係にあった。そのため、阪和電気鉄道線の免許取得に当たっては政治的な工作をこのグループから依頼されており、単純な株式引き受けに留まらない、複雑な経緯を経た末の資本参加であったことが伺われる。 京阪の起業参加に際しては、同社による和歌山方面の電力供給が約束されたほか、同社技術陣の派遣も行われている。他の設立メンバーには鉄道経営の経験者がほぼ皆無であったことから、実際の鉄道建設は京阪系のスタッフにその多くが委ねられることとなった。
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