(初代)京阪電気鉄道時代
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「京阪京津線」の記事における「(初代)京阪電気鉄道時代」の解説
1925年(大正14年)2月1日:京津電気軌道株式会社が京阪電気鉄道株式会社と合併し、同社の京津線となる。 5月5日:札ノ辻駅 - 浜大津駅(現在のびわこ浜大津駅)間が延伸開業し、全線開通。浜大津駅を新設。 1926年(大正15年)9月1日:旧京津電気軌道が行っていた配電事業を京都電燈に譲渡。 1927年(昭和2年)9月21日:御陵駅を新築移転。 1928年(昭和3年)7月1日:応天門駅を神宮道駅(後の平安神宮前駅。1944年廃止)に、広道駅を岡崎道駅(1931年2月20日廃止)に、それぞれ改称。 11月20日:自動閉塞信号機の使用を開始。 1930年(昭和5年)11月9日:大谷駅で労働組合員による電車脅迫脱線事件が起きる(日本の鉄道に関する事件を参照)。 1931年(昭和6年)2月9日:線路移設工事のため、蹴上駅の仮ホーム使用を開始。 2月20日 専用軌道上の古川町駅 - 蹴上駅間を三条通上の併用軌道に移設したことにより営業キロが86m短縮。神宮道駅を三条通上の併用軌道に移設。岡崎道駅を廃止。 3月25日:蹴上駅の新ホームが竣工。 3月28日:古川町駅を旧位置に移設。 7月23日:四宮駅 - 追分駅間の京都府京都市と滋賀県大津市との境界付近に緑ヶ丘運動場前臨時駅を新設。 1932年(昭和7年)2月16日:京津国道(国道1号)の改良工事に伴い大谷 - 追分間併用軌道の専用軌道化工事竣工。 4月7日:大谷駅を新築移転。 1933年(昭和8年)2月1日 日本初の複巻電動機付回生制動車50型営業運転開始。 5月11日:蹴上駅 - 日ノ岡駅間の併用軌道を専用軌道に移設。 6月15日:三条大橋駅 - 浜大津駅間の所要時間を最速27分に短縮。 1934年(昭和9年)3月19日:日本初の連接車60型3編成竣工し、「びわこ号」と命名。 4月2日:三条駅・三条大橋駅経由の京阪本線・京津線の直通運転が開始。60型を使用し、天満橋駅 - 浜大津駅間で特急「びわこ号」の運転が開始され、同区間が最速72分で結ばれる。 4月17日:山科駅前駅の待避線が完成し、三条大橋駅 - 浜大津駅間の急行運転が開始され、三条大橋駅 - 浜大津駅間の所要時間を最速21分に短縮。 1935年(昭和10年)6月29日:鴨川水害に伴い三条大橋駅破損、蹴上駅 - 日ノ岡駅間の土砂崩れで三条大橋駅 - 日ノ岡駅間が不通、7月2日より運転再開。 1936年(昭和11年)6月25日:天文台下駅開業。 10月10日:軌道・鉄道線路名が改正され、大津線に属する京津線となる。 1937年(昭和12年)8月20日:大津線の旅客運賃の改正を実施し、旅客運賃を値下げ。 1939年(昭和14年)6月20日:京津線と石山坂本線との連絡線が完成。 1940年(昭和15年)戦時体制下の下、紀元2600年と相まって京津線開業30周年の祝意を表す最小限の企画が実施。 2月頃:京阪線京津線の「びわこ号」による直通運転が停止される。 1941年(昭和16年)2月1日:神宮道駅を平安神宮前駅に改称。 1942年(昭和17年):緑ヶ丘運動場前臨時駅を廃止。 1943年(昭和18年)4月15日:天文台下駅を九条山駅に改称。
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(3代目)京阪電気鉄道時代
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「京阪京津線」の記事における「(3代目)京阪電気鉄道時代」の解説
2016年(平成28年)4月1日 (2代目)京阪電気鉄道株式会社が持株会社移行に伴い、京阪ホールディングス株式会社に商号を変更。同社の鉄軌道事業を(3代目)京阪電気鉄道株式会社(京阪電気鉄道分割準備株式会社から商号変更)が継承。 2017年(平成29年)4月1日 石山坂本線を含む大津線系統全線で、JR西日本が発行するICカード「ICOCA」を媒体とした「ICOCA定期券」を発売。 2018年(平成30年)1月31日:スルッとKANSAI対応カードの利用を終了。 3月17日:浜大津駅をびわ湖浜大津駅に改称。 9月4日:台風21号の接近に伴い「計画運休」を初めて実施。同月30日にも 台風24号の接近で計画運休を実施。 2019年(平成31年)2月:大津線すべての先頭車にドライブレコーダーの取り付け完了。
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京阪電気鉄道時代(戦前)
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京阪電気鉄道との合併後、しばらくはそのままの形態での運用が続いた。 しかし、乗客の少ない閑散線区に中形ボギー車12両の配置はいかにも過大であり、そのため京阪線へ101 - 108の8両を移管することが計画された。京阪の技術陣は「支線には勿体ないほどの優秀な車両」と評していたという。 1929年(昭和4年)9月にまず101 - 106の6両が守口工場へ回送され、大阪市内には併用軌道区間があったことから軌道法の規定に従い、床下両端部にロックフェンダー式排障器を装着、屋根上のパンタグラフを撤去して前後にトロリー・ポールを設置、屋根上の前照灯も撤去された。こうして1930年1月より京阪線での運用が開始されたが、既存の100型と形式が重複することから翌1930年(昭和5年)2月にまず101 - 106について800型801 - 806へ改形式・改番された。これらは天満橋 - 守口(現・守口市駅)間の区間運用を主体に、全線で運用されている。1931年(昭和6年)7月19日801-802の急行が伏見稲荷駅南側の京都市電稲荷線との平面交差で衝突事故を起こし京都市電が全損、京都市への代物弁済として石山坂本線の80型 (初代)89号が譲られている。 京阪線に転籍した6両は、当初塗装が焦げ茶のままであったが、これは検査時などに京阪線標準の濃緑色へ塗り替えられた。また、1932年(昭和7年)10月15日の集電装置切り替えの際には、経緯は不明であるが、従来のパンタグラフ設置位置とは反対側の位置に東洋電機製造製菱枠パンタグラフを搭載、連結運転を実施するためにマルコ型自動連結器が搭載され、排障器が連結器下に装着された。 一方、石山坂本線となった旧琵琶湖鉄道汽船線については、三井寺以南と以北の区間の運用を一元化することとなり、架線をトロリー・ポール集電対応に張り替え、三井寺以南で運行されていた路面電車スタイルの車両を坂本まで運行するよう改めた。 その際、本形式の残存車6両についても京阪線用と同じくパンタグラフを撤去してトロリー・ポール搭載に改められた。もっとも、こちらは前照灯は従来通り屋根上に搭載し、連結器を装着せずに大型の排障器を搭載しており、京阪線の同型車とは異なった外観となっている。 なお、これら6両についてもこの集電装置変更と前後して1931年5月に800型807 - 812へ改形式・改番されている。 その後、1935年3月に811・812が守口工場へ送られ、801 - 806と同一仕様に改造されて807・808へ改番、入れ替わりに従来の807・808が811・812へ改番された。 同じ1935年の2月から3月にかけて、801 - 806が片運転台化されており、京阪線へ転入した807、808についても同様に片運転台化されている。さらに1939年10月より京阪線所属車について座席の全ロングシート化工事が開始され、1940年7月までに801 - 808の改造が完了している。 一方、石山坂本線に残存していた809 - 812についても、戦時中の輸送事情悪化でより大型の車両を京阪線に投入することになり、京阪線所属の100型4両と交換する形で1940年2月に京阪線へ移管され、パンタグラフ集電への再改造と片運転台化、ロングシート化、それに柴田式自動連結器の搭載が行われた上で、同年4月より京阪線での運用を開始している。
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京阪電気鉄道時代(戦後)
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「琵琶湖鉄道汽船100形電車」の記事における「京阪電気鉄道時代(戦後)」の解説
その後は、長らく京阪線で普通列車を中心に基本的に2両編成、両運転台で両端にジャンパ線を設置する808を組み込んだ編成に限りラッシュ時に3両編成で運用され、1959年(昭和34年)には810 - 812の運転台側にジャンパ線を追加、ラッシュ時に複数編成で3両編成を組成可能なように変更された。 その間、ラッシュ時対策として天井への扇風機の設置が実施され、さらに808以降については室内灯の蛍光灯化も実施された。だが、京阪線では淀屋橋地下線開業に伴い車両の不燃化対策と貫通路の整備が求められたことから、非貫通構造でしかも木造の本形式については地下線が開業した1963年(昭和38年)に京阪線での運用が終了、以後本形式は3両編成を組んで主に交野線専用となった。 最終的に製造から40年が迫り、老朽化が進んだことから、1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて全車廃車となった。 本形式の廃車後、台車・主電動機をはじめとする機器は石山坂本線用として新造された350型に流用され、いわば里帰りを果たした形となっている。また、後年になって同じ800という車両形式が、石山坂本線こそ回送や試運転での入線のみで営業運転はしないものの、やはり大津線用として製造されたセミクロスシート車(800系)に継承されている。
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