京阪電気鉄道への合併
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「和歌山水力電気」の記事における「京阪電気鉄道への合併」の解説
大正時代に入ると、和歌山水力電気では破綻した才賀藤吉をはじめとする大阪の株主が退潮し、その分、津村紀陵(津村重兵衛の子)や社長島村安次郎の一族など和歌山県内株主の持株比率が上昇した。県内資本主導の経営が続く中、大戦景気期の1917年6月に倍額増資が議決された株主総会にて、会社は和歌山・湯浅間の鉄道経営、日高川における第三・第四・第五3か所の発電所建設も決定する。その後、前述の通り高津尾発電所が完成をみたものの、大戦景気期における電動機の普及は急速で、需要増加に供給力拡充がまったく追いつかなくなった。1920年代初頭の段階では、隣接事業者南海水力電気からの受電300キロワットを加えても、なお供給を2割ほど上回る需要があったという。1922年(大正11年)5月末時点における供給成績は、電灯10万3202灯(需要家数4万4053戸)・電力供給9504.6馬力(電動機1345台)であった。 1921年(大正10年)、電力不足に陥る和歌山地方に参入を図るべく、関西地方での地盤獲得を目指す大手電力会社大同電力(社長福澤桃介)が和歌山市内と海草郡を電力供給区域とする件を出願した。この動きに対し、和歌山水力電気では同年7月9日、県知事に電力不足対策に関する上申書を提出する。その内容は、資本金を1300万円に引き上げ、それを元手に4か所の発電所を建設し供給力倍増を図る、というものであった。同年10月資本金640万円を全額払い込みとし、次いで11月25日、臨時株主総会にて増資を決議している。しかしながら、安定した経営を続け内容の充実した和歌山水力電気であるとはいえ、戦後恐慌の渦中にあっては資金調達が困難であった。そこで経営陣らは、打開策として有力な電力会社との合併を試みることとなった。 関西の私鉄京阪電気鉄道で当時常務(のち社長)を務めた太田光熈によると、社長の島村らが合併話をまず持ち掛けた先は福澤桃介であった。福澤は当時大同電力以外にも愛知県の名古屋電灯を経営していたが、その名古屋電灯が奈良県の関西水力電気との合併を進めていた(1921年10月合併で関西電気成立、翌年東邦電力となる)ため自然と和歌山水力電気の合併話を持ちかける流れになったという。しかし名古屋電灯または関西水力電気との合併は条件面で折り合いがつかなかった。その後、太田の元に大阪電灯との合併を仲介してほしいとの依頼が入る。そこで太田は和歌山水力電気の内容を調査した上で、合併後の増配が可能とみて京阪電気鉄道の方で合併に応じる方針を決めた。合併仮契約は同年12月11日付で締結。翌1922年1月29日、京阪電気鉄道の株主総会にて合併が決議され、同日和歌山水力電気においても総会で合併ならびに増資決議の取り消しが決議された。 合併は1922年7月1日付で成立、同日をもって和歌山水力電気は解散した。合併に伴う京阪電気鉄道の資本金増加は1152万円であり、和歌山水力電気の株主に対して持株5株につき9株の割合で京阪電気鉄道の合併新株が交付されている。合併にあわせ、京阪電気鉄道は和歌山県内の事業を所管する和歌山営業所(8月より和歌山支店)を市内岡山丁に開設した。同社では4年後の1926年(大正15年)に御坊・田辺方面に供給する日高川水力電気も合併して和歌山県内事業を拡大するが、1930年(昭和5年)に三重県の電力会社合同電気に和歌山支店を売却したため和歌山進出は短期間で頓挫した。
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