京阪電気鉄道の統合と分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 21:33 UTC 版)
「阪神急行電鉄」の記事における「京阪電気鉄道の統合と分離」の解説
日中戦争 - 太平洋戦争(第二次世界大戦)の進展により、産業界でも戦時体制が強化され、1943年(昭和18年)には陸上交通事業調整法を根拠とし、阪神急行電鉄と京阪電気鉄道は対等合併することになった。 もともと、合併対象としては競合する阪神電気鉄道の方が妥当ではないかと見られていたが、阪神は沿線に軍需工場を有しており、さらに政財界へのパイプも太かったことから単独で残ることが可能と判断されたのに対し、一方で京阪は昭和初期に新京阪鉄道(現在の阪急京都本線・千里線・嵐山線を運営)・奈良電気鉄道(後の近鉄京都線を運営)・阪和電気鉄道(後のJR阪和線を運営)などへ過大な投資をし、その債務処理に長らく追われたことから経営基盤が弱いと判断され、結局阪急との統合に至ったといわれている[誰によって?]。 この合併は形式的には京阪が解散し、阪急が京阪神急行電鉄と改称する形で実施された。京阪は合併後の社名を単に「京阪神電気鉄道」とすることを提案していたが、阪急側の意向で「急行」が残ったといわれている[誰によって?]。なお、公式の略称は「京阪神」とされ、対外呼称として「京阪神急行」「京阪神急行電車」を用いていたが実際にはほとんど定着せず、利用客は依然として「阪急」・「京阪」・「新京阪」(京阪の有する旧:新京阪鉄道の路線。合併時点では京阪の新京阪線と総称していた)などと呼んでいたといわれている。プロ野球の阪急軍も、京阪との合併期間中を通じて「阪急」の名称を改めることはなかった。 戦中戦後には資材不足による車両故障や破損、それに空襲の被害などで運行もままならない状態が続くが、そんな中で1944年(昭和19年)4月8日には、新京阪線の急行電車が十三駅より宝塚線を経由し、梅田駅に乗り入れる(戦争末期に空襲と事故の影響で一旦中断)などといった、両社の統合を象徴する出来事もあった。 その後、近畿日本鉄道や東京急行電鉄のように、戦中強制的に統合された鉄道会社の解体が行われることになり、京阪神急行でも旧:京阪サイドから分離の圧力が高まった。その際、完全に合併前の状態に戻すべきだという声も強かったが、結局は旧:阪急側の発言力が大きいことも影響し、新京阪線を残して分離することになった[要出典]。当時の京阪神急行の太田垣士郎社長は、分離を正式決定した1949年(昭和24年)9月27日の臨時株主総会後に「淀川西岸の各線(新京阪線と旧:阪急各線)は日本国有鉄道(国鉄)との競合が大きく、高速化や新車投入などを積極的に行う必要があるのに対し、東岸の各線(京阪線・大津線)は観光輸送面での特色を発揮する必要があり、双方のためにもこの地域ブロックによる分離を行うのが妥当」という内容のコメントをしている。同じコメントの末尾では「京阪神急行電鉄としても、新会社をあくまで兄弟会社として育成する義務と責任を感じている次第である」とも述べている。 1949年12月1日に(新)京阪電気鉄道が分離発足し、京阪神急行電鉄は社名はそのままながら旧:新京阪線(この時京都線と改称)地域を含め、「阪急」と呼ばれるようになった。1973年(昭和48年)4月1日には定着した略称をそのまま正式社名に採用し、阪急電鉄と改称している。 なお、合併前の両社の系列にあったバス事業者(阪急側:阪神合同バス→阪急バス(1946年改称)、京阪側:京阪自動車(現・京阪バス))については統合の対象とならなかったため、両社の合併中も別会社であったが、京阪の再分離に伴い、1951年に京阪自動車の淀川西岸の路線が阪急バスに譲渡されている。
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