郊外への進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 14:18 UTC 版)
1906年(明治39年)、名古屋電気鉄道では本格的な郊外路線の建設計画が持ち上がっていた。全国的な電気鉄道敷設ブームを背景に名古屋市近郊に相次いで電気鉄道敷設の計画が持ち上がっており、知多電気鉄道(愛知電気鉄道の前身)が熱田 - 常滑間、尾張電車鉄道が名古屋 - 岩倉 - 犬山間、一宮電気鉄道が名古屋 - 岩倉 - 一宮間の軌道敷設を申請していた。これらに対抗して、名古屋電気鉄道では1906年の11月から12月にかけて、市電に接続する押切町を起点とし津島や一宮間へ向かう路線や熱田 - 半田間の軌道敷設を申請した。 尾張電車鉄道と一宮電気鉄道の計画は輸送需要などから有望とされていた。だが名古屋 - 岩倉間が競合しており、競合を回避するため愛知県知事に調停により両社の合同が図られたが、不調に終わった。そこで県知事は発起人の繋がりがあった尾張電車鉄道と名古屋電気鉄道の合同を画策し、その結果尾張電車鉄道は1907年(明治40年)2月に事業を名古屋電気鉄道に譲渡した。一宮電気鉄道も同年6月に名古屋電気鉄道に事業を譲渡したため、名古屋電気鉄道は両社の計画を継承することになった。 こうして、押切町から名古屋市の郊外へ向かう電気鉄道の建設が始まった。計画区間の一部である押切町 - 枇杷島(庄内川東岸で、名古屋市側)間は枇杷島線として1910年5月に先行開業したが、残る区間は庄内川橋梁の完成を待ち、1912年(大正元年)8月6日に押切町 - 岩倉 - 西印田間の一宮線と岩倉 - 犬山間の犬山線が全通した。これらの区間は軌道条例ではなく軽便鉄道法の適用区間とされて軽便鉄道部(軽鉄部)と呼称され、「郡部線」と通称された。一方、従来の軌道条例(後軌道法)適用区間である路面電車は、正式名称は軌道部とされ、「市内線」と通称された。 郊外路線の建設はこの後も続き、1913年1月に一宮線西印田 - 東一宮間が延伸、1914年1月には枇杷島橋 - 新津島間の津島線が開業し、鉄道敷設免許を持つ3路線が全通した。また、郊外路線の都心部のターミナル駅として1913年11月に柳橋駅を開設し、郊外路線の電車が市内線に乗り入れるようになっている。 1914年9月には須ヶ口 - 清洲間の清洲線が開業、1920年(大正9年)9月には岩倉 - 小牧間の小牧線が開業した。小牧線の開業によって郊外路線の営業キロは合計で54.9kmとなったが、これ以降名古屋電気鉄道は郊外路線の建設を行っていない。
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