電気鉄道について調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「電気鉄道について調査」の解説
折りしも、1890年5月に上野公園において第3回内国勧業博覧会が開催され、そこでは東京電燈がアメリカからスプレーグ式電車を輸入し、実際に展示運転を行なっていた。これは日本で初めての電車であった。 前述の通り、小田原馬車鉄道は苦しい経営を余儀なくされており、何か大きな改革によってこの状況を打破することが必要と考えていた。そのような状況下でこの催しを知った社長の田島は、馬車鉄道から電気鉄道への転換が可能かどうかを模索するため、重役会で電車の視察について賛同を得た上で、この電車の視察に博覧会会場へ赴いた。東京電燈の技師長であった藤岡市助はこの視察を喜び、日本国外における電気鉄道の実情や運転方法について説明し、藤岡自身が設計した発電所まで案内した。さらに藤岡は「箱根の地形は水力発電に向いている」とも付け加えた。 博覧会で実際に電車を見た田島は、「次の乗り物は電車」と確信し、早速同年10月の株主総会で電気鉄道への変更を提案したが、時期尚早として見送りとなってしまった。当時、小田原や箱根には、どこにも電灯は設置されていなかったのである。しかし、資金調達の手段については討議され、増資の資金募集を行い、無理な場合は会社の財産や経営権を売却することで電化工事に充てようという方針が定められた。 翌1891年には、当時逓信次官であった前島密に意見を求めたが、前島の反応は「電気鉄道に転換すれば十分に利益が上がるだろう」と好意的で、ちょうど欧米の電化事情を視察して帰国したばかりだった逓信省職員の五十嵐秀助を現地に派遣した。五十嵐は現地を視察の上、「水力発電が得やすく、電気鉄道としては天与の好位置」と報告した。1893年6月には東京電燈の藤岡に対して電気鉄道全般について指導を依頼、同年9月には琵琶湖疎水と蹴上発電所の建設に携わった田辺朔郎と武永常太郎に対して実地測量を依頼した。この実地測量の結果、発電所からの電力によって、電車の運行だけではなく電力供給事業まで行うことが可能であると判明した。この結果を元に、同年10月には電気鉄道への転換が株主総会で決議され、同年10月12日に神奈川県に対して電気鉄道への変更を出願した。1894年8月には、神奈川県から「道路を会社側で拡幅した上で、新設した軌道敷を国に献上する願書を提出すれば、電気鉄道への変更は軌道条例によって許可する」との内示が出た。しかし、まだ資金調達の目途が立っていない現状であったため、この時点では会社側では様子を見るしかなかった。
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