富永謙吾とは? わかりやすく解説

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富永謙吾

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/20 03:53 UTC 版)

冨永 謙吾
1955年4月にソ連から帰国したばかりの兄冨永恭次(杖をついている)。冨永謙吾は後ろで兄を支えている。
生誕 1905年8月14日
日本 長崎県
死没 (1996-12-03) 1996年12月3日(91歳没)
所属組織 大日本帝国海軍
軍歴 1927年 - 1946年
最終階級 海軍中佐
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冨永 謙吾(富永 謙吾、とみなが けんご、1905年明治38年)8月14日 - 1996年平成8年)12月3日)は、日本海軍軍人、戦史研究家。最終階級は海軍中佐。筆名=四方 知明[1]

経歴

医師・富永吉太郎の四男として長崎県で生まれる。大正12(1923)年海軍兵学校に入り、昭和2(1927)年海軍少尉に任官。以後、海軍水雷学校講習員、同高等科学生、駆逐艦夕立」「望月」水雷長兼分隊長、横須賀鎮守府副官兼参謀、海軍軍事普及部委員などを経て、昭和15(1940)年、大本営軍事報道部員となる。以後、大本営海軍報道部員兼海軍参謀を昭和19(1944)年まで務め、パラオ島で敗戦。昭和21(1946)年に海軍中佐で予備役編入。戦後、防衛庁戦史室(現防衛研究所)に編纂官として務め、太平洋戦史を研究。

戦時中に執筆した「米国への判決」(1943年)や「大本営発表海軍篇」(1952年)等、大本営発表と内外の資料を対比させる手法で真実を示した。更に1954年「証言記録太平洋戦争史」(訳編)、1970年「大本営発表の真相史」などを発表、当時流行の暴露や懺悔の手法を避けた。また「ニミッツの太平洋海戦史」(共訳)など多くの戦史資料を訳出した[2]

家族親族

兄:富永恭次
陸軍中将。
兄:富永昌三
海軍少将。
義兄:森田徹
陸軍少将。富永の妹を娶る。歩兵第71連隊長としてノモンハン事件で戦死。
甥:富永靖
陸軍大尉。慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となり、第58振武隊員(特攻隊員)として、1945年5月25日、富永から貰った日章旗を携えて四式戦闘機「疾風」爆装機に搭乗し都城飛行場より出撃、戦死。

著書・訳書

児童向け出版

  • 実松譲と監修『真珠湾攻撃―日本の運命をかけた奇襲』 写真で見る太平洋戦争〈1〉秋田書店、1972年。
  • 伊東駿一郎と監修『シンガポール攻略戦』写真で見る太平洋戦争〈2〉秋田書店、1972年。
  • 吉田俊雄と監修『大和武蔵―日本海軍が誇る超戦艦』 写真で見る太平洋戦争〈5〉秋田書店、1972年
  • 『栄光の名機・名鑑・名戦車』 太平洋戦争図鑑・秋田書店、1980年

脚注

  1. ^ [1]
  2. ^ [2]



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