神風特別攻撃隊編成
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1944年10月5日、大西が第一航空艦隊長官に内定した。この人事は特攻開始を希望する大西の意見を認めたものともいわれる。妻には「平時ならうれしい人事だが今は容易ならず決意が必要」と語った。大西は軍需局を去る際に杉山利一ら局員に「向こうに行ったら必ず特攻をやるからお前らも後から来い」と声をかけた。杉山は大西自ら真っ先に体当たりするだろうと直感したという。 大西は出発前に米内光政海軍大臣に「フィリピンを最後にする」と特攻を行う決意を伝えて承認を得た。また、及川古志郎軍令部総長に対しても決意を語った。及川は「決して命令はしないように。戦死者の処遇に関しては考慮します。」「指示はしないが現地の自発的実施には反対しない」と承認した。大西は「中央からは何も指示をしないように」と希望した。大西は、軍令部で航空部員源田実中佐に戦力を持っていきたいと相談し、現在その戦力がないことを知らされたが、代わりに零戦150機を準備する約束を取り付けた。源田によれば大西はその時も場合によっては特攻を行うという決意を話したという。大西は足立技術大佐に対し、これからはあんまり上等な飛行機はいらんから簡単なやつをつくっておけと話した。 大西中将は特攻の戦果発表に関心を持っており、長官に内定した1944年10月5日、海軍報道班員に「特攻隊の活躍ぶりを内地に報道してほしい。よろしく頼む」と依頼していた。またフィリピンへ出発する前に、もし特攻を行なった場合の発表方法について中央とも打ち合わせをした(決定はされておらず、特攻の事後の10月26日に中央から大西に意見を求める電文が発信された)。 大西は帰宅すると、義母に子守唄を歌って下さいと頼んだ。義母は嗚咽がこみ上げてきて中途から泣き出した。妻淑恵が歌うかというと、大西は「年下のものに子守唄なんか歌ってもらえるか」「自分で歌うか」と歌い出した。一航艦長官内定について大西は義母に「ふだんならかたじけないほどの栄転だが、今日の時点では、陛下から三方の上に九寸五分をのせて渡されたようなものだよ」と語った。 1944年10月9日、フィリピンに向け出発。沖縄に敵機動部隊が集中していることを聞き、上海を経由し、11日、台湾高雄に到着。第二航空艦隊長官福留繁と会談。その後、新竹で航空戦の様子を見て多田武雄中将に「これでは体当たり以外方法がない」と話し、連合艦隊司令長官豊田副武大将に対しても「単独飛行がやっとの練度の現状では被害に見合う戦果を期待できない、体当たり攻撃しかない、しかし命令ではなくそういった空気にならなければ実行できない」と語った。実戦部隊の最高責任者である連合艦隊長官豊田副武大将が大西の意見に反対しなかったということは黙認を意味している。 フィリピンに到着後、大西と交替予定の一航艦長官寺岡謹平中将に「基地航空部隊は当面の任務は敵空母甲板の撃破とし発着艦能力を奪い水上部隊を突入させる。普通の戦法では間に合わない。心を鬼にする必要がある。必死志願者はあらかじめ姓名を大本営に報告し心構えを厳粛にし落ち着かせる必要がある。司令を介さず若鷲に呼び掛けるか、いや司令を通じた方が後々のためによかろう。まず戦闘機隊勇士で編成すれば他の隊も自然にこれに続くだろう、水上部隊もその気持ちになるだろう、海軍全体がこの意気で行けば陸軍も続いてくるだろう。」と語り必死必中の体当たり戦法しか国を救う方法はないと結論して寺岡から同意を得て一任された。 1944年10月19日、大西はマニラ艦隊司令部にクラーク基地の761空の司令前田孝成大佐、飛行長庄司八郎少佐とマバラカット基地の201空の司令山本栄中佐、飛行長中島正少佐を呼び出し特攻の相談をすることにした。761空は相談できたが、201空は到着が遅れ、大西は自ら出向くことにしたが、すれ違いとなり会うことはなかった。そのため、小田原参謀長が代わりに山本司令に会って特攻決行の同意を得ることになった。 1944年10月19日、大西中将は夕刻マバラカット飛行場第201海軍航空隊本部で201空副長玉井浅一中佐、一航艦首席参謀猪口力平中佐、二十六航空戦隊参謀吉岡忠一中佐らを招集し会議を開いた。大西は「米軍空母を1週間位使用不能にし捷一号作戦を成功させるため零戦に250キロ爆弾を抱かせて体当たりをやるほかに確実な攻撃法はないと思うがどうだろう」と提案した。山本司令が不在だったため玉井副長は自分だけでは決められないと答えた。大西は、山本司令から同意を得ていることを伝え、決行するかは玉井に一任した。玉井は時間をもらい飛行隊長の指宿正信大尉、横山岳夫大尉らと相談して体当たり攻撃の決意を大西に伝えた。玉井はその際、編成に関しては航空隊側に一任してほしいと要望して大西はそれを許可した。猪口力平参謀が「神風特別攻撃隊」の名前を提案し、玉井も「神風を起こさなければならない」と同意して、大西がそれを認めた。また大西は各隊に本居宣長の歌「敷島の大和心を人問わば朝日に匂ふ山桜花」から敷島隊、大和隊、朝日隊、山桜隊と命名した。 1944年10月20日、第一航空艦隊司令長官着任。副官を務めた門司親徳は、大西に厳しさに満ちた中にも直感的に親しみを感じたという。 20日、大西によって神風特別攻撃隊の隊名を付され、編成なども発表された。大西は敷島隊へ「日本は今危機でありこの危機を救えるのは若者のみである。したがって国民に代わりお願いする。皆はもう神であるから世俗的欲望はないだろうが、自分は特攻が上聞に達するようにする。」と訓示した。神風特攻隊編成命令書を大西、猪口力平、門司親徳で起案し連合艦隊、軍令部、海軍省など中央各所に発信した。 10月21日、大西は特攻で空母の甲板撃破の時間的余裕を得るため、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将に協議しに行くが、25日で行動予定を組んでいるため、変更は困難と断られる。10月22日、第二航空艦隊長官福留繁中将に第二航空艦隊も特攻を採用するよう説得するが、断られた。第一航空艦隊の特攻戦果が出た25日第二航空艦隊も特攻採用を決定する。大西は福留に対し「特別攻撃以外に攻撃法がないことは、もはや事実によって証明された。この重大時期に、基地航空部隊が無為に過ごすことがあれば全員腹を切ってお詫びしても追いつかぬ。第二航空艦隊としても、特別攻撃を決意すべき時だと思う」と説得して、福留の最も心配した搭乗員の士気問題については確信をもって保証すると断言したため、福留も決心し、第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合した連合基地航空隊が編成された。福留が指揮官、大西が参謀長を務めた。大西は第一航空艦隊、第二航空艦隊、721空の飛行隊長以上40名ほどを召集し、大編隊での攻撃は不可能で少数で敵を抜けて突撃すること、現在のような戦局ではただ死なすよりは特攻が慈悲であることなどを話して特攻を指導した。大西の強引な神風特攻隊拡大に批判的な航空幹部もいたが、大西は「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と指導した。 10月26日夜、海兵同期で親友の多田武雄の子息であり、神風特別攻撃隊第2朱雀隊(11月特攻)の隊長機に選ばれた多田圭太中尉が大西を訪ねた。妻淑恵によれば、多田家とは昔隣同士で圭太が生まれると実の息子のようにかわいがっていたという。圭太は懐かし気に入ってきて、しばらくつもる話をした後、連れだって長官室を出て、大西は「元気にやれよ」と声をかけ、圭太は別れを告げると一目散に去って行った。矢次一夫は「大西は、私に、この話をしている間、大目玉に涙を一杯溜めていた」と語っている。また、「多田中尉、いまより敵艦に突入す」という無電が入ったときは「じつに熱鉄を飲む思いがしたよ」と大西から聞いたという。のちに軍令部次長となって、次官の多田と一緒に仕事をする機会が多くなった大西であったが、多田が圭太のことを聞かないので、ついに口に出せなかったと大西は語り、矢次は話を聞きながら「ああ、大西は死んだら自分に代って多田中将に話してくれと言ってるんだな」と思い、大西が自決した日にかけつけた多田夫妻にこの話をすると、多田は瞑目し婦人は泣き崩れたという。 10月27日には大西によって神風特別攻撃隊の編成方法、命名方法、発表方針などが軍令部、海軍省、航空本部など中央に通達された。大西は特攻隊員の心構えを厳粛にするため特別待遇を禁じ、他の勝手な特攻も禁じた。猪口力平によれば27日特攻隊を見送った大西は「城が言っていたが現場で決心がついた。こんなことしなければならないのは日本の作戦指導がいかにまずいかを表している。統率の外道だよ」と語った。レイテに敵が上陸し一段落したので特攻を止めるかと猪口力平に質問された大西は「いや、こんな機数や技量では、戦闘をやっても、この若い人々は徒らに敵の餌食になってしまうばかりだ。部下をして死所を得さしめるのは主将として大事なことだ。だから自分はこれを大愛と信ずる。小さい愛に拘泥せず、自分はこの際続けてやる」と語った。 同じころ大西は、多号作戦で輸送艦隊の脅威となっている、コッソル水道のアメリカ軍飛行艇とPTボート基地の攻撃を、PTボート攻撃で成果を上げていた第一五三海軍航空隊戦闘901飛行隊の美濃部正少佐に命じ、その攻撃手段として特攻を打診しているが、美濃部から「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、その方がすぐれているわけです。私は、それに全力を尽くすべきと思います」「だいいち、特攻には指揮官は要りません、私は指揮官として自分の方法を持っています。私は部隊の兵の使い方は長官のご指示を受けません」と反論されている。「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と第一航空艦隊幹部に徹底していた大西であったが、この美濃部の反論に対して怒りを見せることもなく、「それだけの抱負と気概を持った指揮官であったか。よし、その特攻は中止して、すべて君に任せる」と意見を認めている。美濃部は、大西が「特攻はむごい。しかし、ほかに方法があるか」「若い者に頼るほかない。これは私の信念だ。特攻は続ける」と呟いたのを聞いたという。のちに美濃部は本土に帰って、通常攻撃が主体の夜間戦闘機部隊芙蓉部隊を指揮することとなるが、大西はその編成を支援している。 11月16日、福留繁中将が特攻の必要と増援の意見具申電(1GFGB機密第16145番電)を発する。大川内傳七中将も同旨だとして大西を上京させて説明すると打電。11月18日大西は猪口力平を伴い、日吉の連合艦隊司令部で豊田副武に状況報告をし、軍令部で及川古志郎軍令部総長に改めて趣旨を説明し、増勢しつつ現兵力でレイテ作戦の対機動部隊作戦を続行し、別の新攻略作戦に充当兵力がほしいと要望した。練習航空隊から200機は抽出できると見積もり、敵来攻時に備え北部台湾に待機させる、ここ1-2週間が重大な時期と述べた。軍令部と海軍省の協議で練習航空隊から零戦隊150機の抽出が決定された。 1945年1月、体当たり攻撃は無駄ではないか、中止してはどうかという質問に大西は「この現状では餌食になるばかり、部下に死所を得させたい」「特攻隊は国が敗れるときに発する民族の精華」「白虎隊だよ」と答えている。同月には、ついにダグラス・マッカーサー大将自ら指揮する連合軍大艦隊が、大西らがいるルソン島に侵攻してきた。1月6日には、日本軍は陸海軍ともに、熟練した教官級から未熟の練習生に至るまでの搭乗員が、稼働状態にある航空機のほぼ全機に乗り込んで、リンガエン湾に侵入してきた連合軍艦隊を攻撃した。大規模な特攻を予想していた連合軍は、全空母の艦載機や、レイテ島、ミンドロ島に進出した陸軍機も全て投入して、入念にルソン島内から台湾に至るまでの日本軍飛行場を爆撃し、上陸時には大量の戦闘機で日本軍飛行場上空を制圧したが、日本軍は特攻機を林の中などに隠し、夜間に修理した狭い滑走路や、ときには遊歩道からも特攻機を出撃させた。そのため圧倒的に制空権を確保していた連合軍であったが、特攻機が上陸艦隊に殺到するのを抑止することができなかった。この日の戦果は、駆逐艦1隻撃沈、戦艦4隻、巡洋艦5隻、駆逐艦5隻撃破と特攻開始してからの最大の戦果となった。日本軍は陸海軍ともにこの攻撃でほぼ航空機を使い果たしてしまい、こののちは散発的な攻撃しかできなかった。。 フィリピンの戦いにおいては陸軍も「万朶隊」などの特攻機を出撃させているが、大西は第4航空軍の司令官富永恭次中将とは連携をとりながら作戦を展開していた。富永も海軍に対しては協力を惜しむことはなく、大西が、海軍には性能のいい偵察機がなく戦果確認に苦労しているので、陸軍への協力を富永に直々に要請しているが、富永は陸海軍の連携を重んじて大西の要請を快諾し、この後、陸軍の「一〇〇式司令部偵察機」が海軍特攻の戦果確認協力を行なうなど、一般的には仲が悪かったといわれる日本陸海軍であったが、フィリピンの航空部隊に関しては、大西と富永の人間関係もあって良好な関係であった。フィリピン戦で海軍は特攻機333機を投入し、420名の搭乗員を失い、陸軍は210機を特攻に投入し、251名の搭乗員を失ったが、挙げた戦果も大きく、連合軍は、フィリピン戦で特攻により、22隻の艦艇が沈められ、110隻が撃破された。これは日本軍の通常攻撃を含めた航空部隊による全戦果のなかで、沈没艦で67%、撃破艦では81%を占めており、特攻は相対的に少ない戦力の消耗で、きわめて大きな成果をあげたことは明白であった。特攻で大損害を被った連合軍のなかでは、日本軍がフィリピンにあと100機の特攻機を保有していたら、連合軍の進攻を何ヶ月か遅らせることができたという評価もある。
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