陸軍による対艦船攻撃の研究
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「万朶隊」の記事における「陸軍による対艦船攻撃の研究」の解説
陸軍中央では1944年初頭に組織的な航空特攻の検討が始まった。陸軍はそれまでも前線からの切実な要望を受けて 浜松陸軍飛行学校が中心となって艦船に対する攻撃法を研究していた。まずは陸軍重爆の雷撃隊への改修を決定し、1943年12月に海軍より九六式陸上攻撃機の提供を受けて訓練が実施された。同時に四式重爆撃機「飛龍」の雷撃機改修も行われた。後に雷撃訓練は海軍指導のもとに行われ、陸軍の技量は向上した。陸軍を指導した海軍航空隊の搭乗員は、自らが運用する「一式陸上攻撃機」と比較するとスマートな機影で、対艦船用レーダー「タキ1」を搭載し、飛行速度や操縦性など基本性能が勝る「飛龍」を見て「陸さんはいいなぁ」と羨望の眼差しを向けたという。 海軍に鍛えられた、陸軍雷撃の精鋭部隊飛行第7戦隊と飛行第98戦隊の「飛龍」68機は、海軍の指揮下となり、第七六二海軍航空隊(部隊名T攻撃部隊)に編入されて、台湾沖航空戦を戦うこととなった。陸軍雷撃隊の初陣は10月12日の夜間出撃となったが、出撃した飛行第98戦隊の「飛龍」22機は迎撃してきた夜間戦闘機に次々と撃墜され、ようやく敵艦隊に接触した「飛龍」が雷撃のために照明弾を投下するも激しい対空砲火を浴びて損害が続出したため、雷撃することもできずに引き返した。この日の未帰還機は9機となり、わずか1回の出撃で雷撃することも無く半数の「飛龍」を失ってしまった。捲土重来に燃える飛行第98戦隊は、10月14日に稼働機15機全機と出撃可能な搭乗員全員で再度出撃した。途中でF6Fヘルキャット1機から攻撃を受けたが、編隊全機の集中射撃でこれを撃退(もしくは撃墜)し、日没直後に敵艦隊に接触した。「飛龍」全機は激しい対空砲火の中で敵艦隊に突入、うち1機が「魚雷命中」の無電を発するも、その後、次々と出撃機からの無電発進が途絶えていき、結局この日出撃した15機中11機が未帰還となった。アメリカ軍の戦闘記録によれば、飛行第98戦隊の雷撃が命中したのは軽巡洋艦「ヒューストン」と見られ、これは陸軍雷撃隊の最大かつ唯一の戦果となったが、精鋭の第98戦隊は24機もの「飛龍」を失い、熟練搭乗員の多くが戦死してしまった。 「台湾沖航空戦」は大戦果の虚報が日本中を驚喜させたものの実態は惨敗であった。これは、アメリカ軍はトラック島を空襲のさいに、日本軍雷撃機の夜間雷撃で正規空母イントレピッドに魚雷1発が命中して損傷するなど、日本軍機の夜間雷撃による損害が絶えなかったため、1944年8月以降に空母部隊の夜間戦闘能力の向上を図っていたからである。アメリカ軍は各空母に4-6機の夜間戦闘機を配置するとともに、正規空母エンタープライズと軽空母インディペンデンス(硫黄島の戦いのときは正規空母サラトガ)に夜間戦闘機の専門部隊を配置、夜間戦闘専門の空母群である第7夜間空母群(英語版)を編成して万全の夜間防空体制を整えており、「台湾沖航空戦」の時点では、飛躍的に夜間や日没直後といった視界不明瞭時の雷撃対策を強化していた。「台湾沖航空戦」に圧勝した第3艦隊司令のウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は、日本軍機によるアメリカ軍艦隊に対する夜間雷撃を含む攻撃を「それほど激しいものでも正確なものでもなく、よく訓練されたアメリカ軍の航空隊にとっては深刻な脅威ではなかった」と振り返っている。 以上の通り航空機による通常雷撃はアメリカ艦隊に対して殆ど損害を与えることができなくなっていたが、陸軍は雷撃部隊の編成と並行して、連合軍が採用しビスマルク海海戦などで成果を挙げていた反跳爆撃(陸軍名「跳飛爆撃」)なども研究も行った。跳飛爆撃の演習担当として、「飛行場を離陸して目的地に直進し、高度を下げれば、そこが目的地」と評されたほど的確な航法・操縦技術と知識を持ち「航法の天才」とも呼ばれるほど陸軍きっての熟練操縦者であり、のちに万朶隊指揮官となる鉾田陸軍飛行学校の岩本益臣大尉(53期)が選ばれて、1年以上も訓練を繰り返した。しかし、陸軍きっての操縦技術を有する岩本とは言え、陸軍の爆撃機の搭乗員は元々、ソビエト連邦軍の地上部隊を爆撃することを想定した、投下した爆弾を炸裂させて地上の広い範囲に大打撃を与えるような爆撃技術をたたき込まれており、海軍の搭乗員が訓練してきた、海上の航行中の艦船に投下した爆弾を命中させるといった精密性を要する爆撃は不得手であった。そのために岩本ら陸軍の搭乗員は訓練を初歩からやりなおす他なかった。 1944年には、航空本部の主催で、神奈川県の真鶴岬にて陸軍航空審査部と各航空隊との跳飛爆撃の合同訓練が行われた。岬の南に点在している岩を目標として、爆弾の投下訓練を行った。この訓練は大成功で、ほぼ百発百中に近い好成績を得られた。特に岩本がこれまでの訓練の成果を発揮し、命中弾の半数をひとりでたたき出している。しかし、この訓練を視察していた鉾田陸軍飛行学校校長今西六郎少将(のちに中将)は「本戦法は鈍重、低速機に適しない。波が高いときは、波の山に当たれば40mから50mの高さに跳飛して船を飛び越え、谷に落ちれば跳飛しないことがある」「波が静かなときは、目標から100mから200mに投下して百発百中である。いずれの場にも効果があるのは、舷側迄水面下を直撃するように投下することである。編隊のまま攻撃するのは相互に妨害して不利である」と穏やかな海面でしか十分な効果が発揮できないという感想を抱いた。8月には、少し厳しい環境での実験として、沖縄の那覇で風速10mから15mの風が吹いている環境下で沈没船を目標として実験を行った。このときは全体での命中率が60%に低下したが、岩本はただ一人ほぼ全弾命中という驚異的な結果を残したという。この一連の実験で、陸軍作戦機の殆どで実施可能という長所があると判ったが、一方で、投下爆弾が海面でのバウンドで減速するために、爆弾衝突時の速度が他の攻撃法と比較して著しく遅くなり重装甲の軍艦には通用しないことと、また爆撃機の行動を軽快、優速に保つため、大質量の爆弾を装備できないことが判明したが、これらは攻撃の成果に重大な懸念を抱かせる致命的な欠陥と言えた。 また、鉾田陸軍飛行学校で岩本らとともに「跳飛爆撃」の研究に携わっていた倉澤清忠少佐が、同時期に「反跳爆撃」の研究を行っていた海軍航空隊の横須賀鎮守府の横須賀海軍航空隊を訪ねて訓練を見学をしたところ、海軍の陸上攻撃機や艦上攻撃機の数機が目標の模擬航空母艦に向けて同時に高度1,000mから急降下、その後に水平飛行に移行し、海面スレスレの高度で各方向から一斉に目標に襲いかかる光景を見て、海軍航空隊の訓練の凄まじさに言葉を失い「目標が海上を動いているだけに、跳飛弾訓練は難しい。陸軍の艦船攻撃は全くの初歩の段階だ。最初からやり直すしかない」と岩本を含む陸軍航空隊と海軍航空隊の熟練度の乖離に絶望し、ともに「跳飛爆撃」を研究していた教導飛行研究部福島尚道大尉に「(跳飛爆撃の研究を続けている)もう、時間は無い」「跳飛爆撃訓練を徹底的に行わせることによって、特攻隊攻撃に転用できるのではないか。1,000mの高度から、跳飛爆撃と同じ角度で突っ込み、その勢いをかって直接体当たりすれば成功する」と意見を述べたところ、当初は強硬な特攻反対派であったはずの福島も「やはりそれ以外に敵艦を撃沈する方法はありませんね」と同意し、2人でその特攻戦術をまとめた意見書を作成し、航空本部を通じて参謀本部に提出している。その意見書に基づき、別府湾で海軍の空母鳳翔と標的艦摂津を使用して行われた航行中の艦船に対する訓練では、九九式双発軽爆撃機に500kg爆弾を搭載して、1,000mから急降下させたところ、陸軍の軽爆撃機と搭乗員ではその後に海軍機のような海面スレスレの飛行に移行できず、なかには急降下の惰性で海上に突っ込む機もあって、陸軍機に500kg爆弾以上の大型爆弾を搭載した「跳飛爆撃」の実現性に疑問符がついている。 そもそも、連合軍の「スキップボミング」が成功したのは、日本軍の輸送艦隊や「チャスタイズ作戦」におけるナチス・ドイツのダム破壊など、対空砲火が弱く、不動もしくは動きが緩慢な目標に対してであり、岩本ら陸軍による「跳飛爆撃」よりも圧倒的に「反跳爆撃」に熟練していた海軍は、「反跳爆撃」の致命的な欠点として、爆弾を投下した攻撃機がそのまま敵艦上空を通過するとき、激しいアメリカ海軍の対空砲火の弾幕に飛び込むこととなるため、被弾の確率が跳ね上がり、殆ど生還が望めないことだと判断している。また、「跳飛爆撃」「反跳爆撃」いずれも、航行中の敵艦に爆弾を確実に命中させるためには、敵艦の1,000mから高度は約10mを保ちながら接近し、敵艦の200mから300mの距離で投弾することを求められた。高度が高すぎると海面でのバウンドが大きくなり敵艦を飛び越し、投弾が早すぎるとバウンド後に敵艦に到達せずに海中に没する可能性が高かった。また、適切な高度と距離で投弾した場合においても、わずか2秒程度で敵艦まで到達するため、迅速に機体を引き起さないと、そのまま敵艦に激突することとなった。従って体当たりも辞さない覚悟がないと正確な投弾を行うことができなかった。 それでも陸軍では、急降下爆撃よりは機体に負担をかけず、水平爆撃よりは命中率がいい艦船攻撃法として、実際に採用する部隊もあった。飛行第3戦隊は岩本の指導のもとで南西諸島で跳飛爆撃の猛訓練を行って練度を高めたが、結局は敵艦の対空砲火対策に妙案なく、日の出30分前及び日没30分後の5分間に、敵艦より上空の航空機を視認しにくい時間があり、その時間に攻撃するという苦肉の策を講じて、レイテ沖海戦中の1944年10月24日に「九九式双軽爆撃機」22機をもって陸軍航空隊最大規模の跳飛爆撃を敢行したが、アメリカ軍護衛空母群から出撃した「F4Fワイルドキャット」隊の迎撃により、途中で引き返した4機を除いて18機全機が撃墜され、初回の出撃で全滅し戦隊長の木村修一中佐も戦死するなど失敗に終わっている。飛行第95戦隊の一〇〇式重爆撃機も、満州からフィリピンに送られる際に、艦船攻撃法として「跳飛爆撃」を習得させられることとなったが、これまで同じ陸軍航空隊の岩本らが「跳飛爆撃」を散々研究・訓練してきたにも関わらず、飛行第95戦隊の搭乗員の訓練は海軍航空隊の「反跳爆撃」の教本によって行われている。しかし、陸軍の重爆撃機では「跳飛爆撃」に不可欠な爆弾投下後の急激な機体引き上げにより、ビスが緩んでしまうほど機体に大きな負担がかかることが判明し、「跳飛爆撃」は非常に困難ということが判明している。飛行第95戦隊はフィリピン進出後に「跳飛爆撃」で戦果を挙げることはできず、飛行場攻撃などで戦力を消耗し、最後に残った7機で特別攻撃隊「菊水隊」を編成して特攻出撃したが、敵艦隊に到達することなく全滅した。 同じ頃に「反跳爆撃」の致命的な欠点を認識していた海軍においても、捷号作戦において、航空打撃力を強化するため、マリアナ沖海戦時と同様に戦闘機を爆装して(爆戦)敵艦隊攻撃に回すこととしたが、艦船攻撃に不慣れな戦闘機搭乗員の攻撃手段として、熟練を要する急降下爆撃ではなく、操縦技術的にはまだ簡単な「反跳爆撃」を導入せざるを得なくなっていた。これには多分に「体当たりも辞せず」という決死攻撃の意図も含まれていたが、訓練中にダバオ誤報事件が発生し、第一航空艦隊は100機近くの「零式艦上戦闘機」を損失、戦力が激減した第一航空艦隊は「神風特別攻撃隊」編成に大きく舵を切っていくことになった。結局、陸海軍ともに大きな労力と時間をかけて研究、訓練した「跳飛爆撃」と「反跳爆撃」であったが、実戦で役に立つことは無かった。
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