陸軍と習志野
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 05:24 UTC 版)
習志野を含む下総台地(北総台地。下総国南東部地域。現在の行政区分では、おおよそ千葉県北西部の、船橋市、鎌ケ谷市、松戸市、柏市、白井市と周辺地域にあたる)は、広大な平坦地ではあるが生活用水となりうる水源の乏しかった為、集落形成には適さず、近代まで開発は進まなかった。しかし、下総台地は馬牧(馬の放牧)に適した平原であり、古くから軍馬の産地として有名であり、源頼朝に献上された生食に代表される名馬たちが育まれた (下総牧。cf. 諸国牧#牧と所在地の下総国)。 江戸時代になると幕府によって幕府直轄の牧場が設置されるようになり、小金牧の一部(下野牧)とされた。 明治維新の後、牧は東京近郊にあることから陸軍の演習場として度々使用されるようになり、明治天皇が「習志野」と命名することとなった近衛兵大演習もその1つである。1874年(明治7年)に陸軍演習場として一帯の官有地が受領された。この時には北端が高根木戸と古和釜木戸を結ぶ古和釜道の南側から、成田街道の両側、南端が境谷(現船橋市と八千代市の境付近)までであった(全て千葉郡二宮村)。一番営から七番営まで兵営が置かれた。その後1900年(明治33年)、1905年(明治38年)と買収により拡大が進み、演習場は千葉郡二宮村(現在の船橋市)、大和田町(現在の八千代市)、幕張町(うち現在の習志野市東習志野の区域)にまたがることとなった。 1899年(明治32年)、騎兵第一・第二旅団が千葉郡津田沼村大久保に設置され(1901年(明治34年)末に編成完了)、日露戦争での騎兵の活躍を通じて「習志野」の名は広く知られるようになった。1910年(明治43年)に東京上目黒にあった騎兵実施学校は、1916年(大正5年)に二宮村の習志野練兵場敷地内に移転された(翌1917年(大正6年)より陸軍騎兵学校)。その時に目黒の陸軍騎兵実施学校内から移築された騎兵連隊御馬見所(現空挺館)が陸上自衛隊習志野駐屯地内(千葉県船橋市薬円台3-20-1)にある。 1901年(明治34年)、津田沼村大久保に陸軍習志野衛戍病院が設置される(ただし敷地の大部分は二宮村三山に属する)。 1905年(明治38年)に拡大された演習場区域のうち幕張町実籾(現在の習志野市東習志野)地区には、糧秣倉庫(糧秣本廠習志野秣倉庫)や高津廠舎が置かれ、ロシア人俘虜収容所とされた。第一次世界大戦の際にも東新廠舎にドイツ人捕虜を収容した(習志野俘虜収容所)。 1907年(明治40年)、津田沼町に鉄道連隊(聯隊)が転営する。 1908年(明治41年)、千葉町に鉄道連隊(聯隊)が転営する、同第三大隊が津田沼に置かれた(1918年(大正7年)に第三大隊が鉄道第2連隊に昇格)。津田沼から習志野の演習場を経て連隊本部(のち鉄道第一連隊)のある千葉とを結ぶ軍用軽便鉄道が敷設され、後には松戸との間にも敷設されている。現在の新京成線の前身である。 こうして「習志野」は千葉郡北部の二宮村(1928年(昭和3年)に町制施行して二宮町)、津田沼町(1903年(明治36年)町制施行)、大和田町、幕張町にまたがって分布する陸軍諸施設とともに一帯の地名として理解されるようになった。 第一次世界大戦後、近代戦への変革の中で騎兵とともに知られた習志野も変化を迎えた。1936年(昭和11年)、大久保の騎兵旅団敷地内に戦車第二連隊(聯隊)が置かれ、騎兵部隊の機甲化(戦車部隊化)の始まりを象徴した。千葉市黒砂に開設された陸軍戦車学校が当初は習志野(二宮町)に置かれたとする資料もある。騎兵旅団敷地には1931年(昭和6年)には陸軍習志野学校も開設され、毒ガスをはじめとする化学兵器についての研究・教育が行われ、実験は群馬県や満州で実施されていたといわれている。近年では日本全国の日本陸軍軍用跡地で旧帝国陸軍地毒ガス埋設問題が浮上し、関連施設の安全性調査を実施している(別項陸軍習志野学校、習志野演習場を参照)。
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