下野牧
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下野牧(しものまき)は、北部の船橋市二和・三咲のほか、南部の「習志野」も含み、現、鎌ケ谷・船橋・八千代・習志野・千葉の各市(旧葛飾郡から千葉郡西部の一帯)、東京湾近くに及ぶ広大な牧であった。初期には市川市東縁に達していたと考えられる。現在、新京成線では二和向台〜習志野の各駅が牧跡にある。南部は、明治期に農地とならず習志野等の軍用地となった土地があり、『千葉郡誌』によると、千葉市域の一部では、旧長作村名主武左衛門による請願の結果、地元民による開墾が認められた。一時期、習志野原御猟場となった土地もあり、開墾の番号順の地名でない土地がある。騎兵学校が置かれたため、明治以降の輸入馬ではあるが、明治以降も軍馬育成が本格的に行われた牧である。 成田街道(佐倉街道)が通り、江戸から多くの成田山参詣者が通過した。 1798(寛政10)年7月26日の事として、前掲『成田の道の記』に「小金つづきの原というを廿二丁も過ぎ」とある。 1816(文化13)年、前掲『十方庵遊歴雑記』に、牧は、舟橋の東、昌伯(しょうはく)村過ぎにある事、牧の出入口に東西とも番人がいる事、路傍に尺角の柱があり、夜は貫を通し馬が出る事を防ぐ事、街道が牧を通るのは26町、牧内は禁煙、積雪時には近郷に一軒より藁三束を馬の餌としてちらすよう号令がある事等の記述がある。 歌川広重『東海道余興と成田道中』収録の『下総成田道中之内小金原』は前後の図から、下野牧におけるものと考えられ、旅人と野馬3頭が描かれている。船橋市では、『富士三十六景』の『下総小金原』も下野牧におけるものとしている。 1851(嘉永4)年、12月16日、宮部鼎蔵は舟橋駅を出た後の事として、「牧馬両三相戯、是為黄金原」、さらに、大和田を抜け、「出駅数里、路上見碑、江戸人古張女題俳□歌曰、ハル駒ヤココモ黄金ノ原ツツキ、此句信不欺我也」と記している。この数日後、鼎蔵は吉田松陰と水戸で合流、東北へ同行する。 大和田付近では大和田原とも呼ばれ、前掲『東都郭外美知志留辺』には小和田原牧、また、薬円臺の表記がある。 1869〜1972年の東京移住窮民、近傍移住窮民、授産処分を受けた窮民は、二和83戸376人、1戸4人、74人、三咲83戸249人、36戸62人、194人である。前掲『開墾地移住経営事例』によると、二和・三咲で残った移住者は、東京府15戸96人、長野県5戸29人、埼玉県5戸28人、県内190戸1401人、自作農または土地所有者は127戸である。土地所有者には約6ヘクタール以上の1戸、約5〜6ヘクタールの2戸、約5アール以下51戸を含む。開墾会社は西村軍次(司)らによって設立され、経営は西村重介に引継がれた。 1871(明治4)年5月、兵部省が要望を出し、陸軍演習場が設けられた。 1873(明治6)年、天皇が、西郷隆盛らを伴い『下総国大和田辺ヘ行幸繰練天覧』のため訪れ、『下総国大和田原ヲ習志野原ト名ケ練兵場トス』る事となった。廃止後ではあるが、下野牧は、天皇の野営という歴史を持つ。天皇は野立で演習を見たが、『下総国習志野原大調練天覧之図』には、中野牧の御立場に酷似した小山、近くの谷津の形に似た煙、近代軍事演習でありながら鹿や猪を追う兵士が描かれた絵もある。 1874(明治7)年、『勧業権頭下総鎌ヶ谷村以東当寮蓄馬放飼の処御省練兵場開設に付捕馬立入の件』『小金牧之内大野牧捕馬派出官員到着に付野営へ御通達の件』は、未だ野馬が残っていた事を示す。後者の本文では下野牧である。 1881(明治14)年6月28日、佐倉牧の捕込を含め『千葉県下下総国ヘ種蓄並馬耕天覧之為行幸』があった。 同年、『千葉県下習志野近傍ニ御遊猟場ヲ設ク・二条』があり、『千葉縣御遊猟場全圖』によると、牧の一部が区域が指定された。 1883(明治16)〜1921(大正11)年、『広報ならしの』によると、陸軍演習場も含め、下野牧南部が習志野原御猟場に指定された。 1884(明治17)年『千葉県下御猟場ノ区域ヲ広ム』では、複雑な境界を整理し、瀧台新田-前原新田は東葛飾郡との境まで、前原新田-長作村は東金街道まで、となった。 1890(明治23)年、『成田土産名所図繪』等に、習志野演習場入口付近を「旧小金原」と題し「陸軍練兵場」とある角柱を描いた絵がある。 1891(明治24)年『千葉県下千葉郡豊富村外三ヶ村御猟場ノ名称ヲ解除ス』で、豊富・白井・風早・手賀の各村は解除された。指定後も拡大と縮小があり、常に下野牧全域または南半分が御猟場だった訳ではない。『恩師乃木院長』に、乃木希典が学生を連れ、地元の多数の猟師の補助の下、狩を行った記述があり、つてがあれば、華族でなくとも狩が行えた事、地元の猟師の存在が判る。 同年、3月25日、正岡子規が牧跡の成田街道を通過、『隠蓑日記』に騎痩馬とあり、『かくれみの句集』の句とともに、馬による旅客運輸の存在を示す。句を示す。 馬の背に菅笠廣し揚雲雀 馬の背に手を出して見る椿哉 馬の背に雲雀は高く麦低し 陽炎や草の中なる馬のくそ 馬ほくほく吹くともなしの春の風 菅笠の影の細さよ原三里(一作。笠の影の細うなりけり原三里) 1920(大正9)年『第三十二期歩兵生徒習志野原野営演習記事』に下野牧を佐倉七牧とする誤った伝聞と、演習場を囲む土手の記録がある。堤防として、駒止谷沿いの土手を記録している。
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