鹿狩・鷹狩
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将軍の鹿狩については小金原御鹿狩参照。鹿狩は、将軍の権威を広く知らしめる軍事演習であり、新田視察、害獣捕獲の側面もあった。大規模なもので、1825(享保10)年から、吉宗2回、家斉・慶喜同行の家慶各1回が行われた。寛永期の家光の鹿狩の伝承は、小規模だったらしく記録が定かではない。家斉の狩の前には中野・下野両牧の馬は下志津の六方野境田に囲土手を作り集められた。下志津、六方、木戸場については下野牧に記す。 松戸市陣ヶ前は諸説あるが、武将の休憩所=陣に因むとされ、本来は国道6号線の陣ヶ前交差点から約1キロメートル東、陣ヶ前公園近く、西木戸第1公園等の北、国道464号線沿いである。鹿狩の時の将軍の御成道の松戸宿から後は、千葉大園芸学部・徳川昭武屋敷戸定邸下-鮮魚街道(ほぼ国道464号線・県道281号線)-陣屋前-後述の御立場である。みのり台駅付近では道筋が変化している。陣ヶ前からみのり台駅付近の道の南側には、御成道の土手が築かれ、ごく一部は21世紀初めまで残存した。当時の絵図に土手上の道はあるが、道沿いの土手はなく、土手上が御成道である。本来、御成道の土手は野馬土手ではないが、陣ヶ前付近に字野馬木戸がある。2010年現在、松戸市立和名ヶ谷中学校近くのスクランブル交差点横の空き地と、北の交差点近く、土手の南にあったはずの庚申塔が土手の幅と位置を示すだけである。中学校前の道は鉄道連隊の軌道跡で、土手を縫うような線路の敷設を示す。 金ヶ作五本木には、享保・寛政の鹿狩の際、要員の小屋が建てられた事が『大狩盛典』の資料にある。金ヶ作の北部に当たり、近くに字騎射立場がある。 家慶が鹿狩を指揮見物した御立場(おたつば・おたちば)は、五香駅南の松飛台に陸軍管轄の飛行場の障害として撤去されるまであった。迅速測図には猪見塚(ししみづか)とある。五香公園に碑があり、少し離れてバス停御立場、御立場商店街がある。 1805(文化2)年の『江戸近郊御場絵図』によると、松戸市和名ヶ谷・日暮・河原塚から南は天領小金領で、牧に隣接して、将軍家の御鷹場葛西筋になっており、また、水戸家の鷹場との境には杭があった。 松戸市によると、1900年12月、慶喜と昭武が小金で狩を行い、かつての鹿狩どころか、鷹狩とも比肩できないほど小規模であるが、記録に残る中では、最後の将軍と最後の水戸藩主の小金原での最後の狩である。
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